朝晩が肌寒くなり、おでんに日本酒が美味しい季節がやってきた。コンビニでは、温まったおでんが店内に並んでいる。好きなものを選んで帰り、そのまま一杯やる、最高だ。コンビニは今では日本の文化の一部だが、おでんはヒット商品の一つに違いない。 おでんを買うたびに思う。人は人を信頼して生きている。その気になれば、おでんに異物を混入させることは難しくない。しかし、たとえ絶対にばれないと分かっていても、人は、そのようなことはしない。そして、そのようなことをする者はいないと人々は信じており、この信頼が社会を成り立たせている。 法に反しない限り私利私欲を追及することが許される市場経済がなぜ上手く機能するのか。経済学者は数学を駆使して、自由競争の下でパレート効率が成り立つことを証明する。しかしそれは数学的モデルでのお話しに過ぎない。自分の利益だけを追及し、お互いに相手を全く信用しない集団が存在するとしよう。そこに市場は成立するだろうか。成立しない、成立してもすぐに崩壊する。そこには、裏切の連続で力を持つ者が強圧的に他者を支配する世界しか存在しない。そして経済は恣意的な統制経済になる。あるいは経済学者は、ゲームの理論では裏切りも考慮していると言うかもしれない。しかしゲームの理論でも基本的に人間はおおよそ善良な存在であると前提されている。そうでなければ、反復可能性が否定され、数学的モデルが構築できない。悪魔には数学は通用しない。人々が互いを信頼することで市場は成立し、経済学は信頼という土壌で花が咲く。 この信頼は何に基づくのか。一部は生物学的本能に基づき、一部は理性的な判断力に基づく。集団行動する人類という種が生存するには協力が不可欠で、そのためには少なくとも群れの内部では互いを信頼する必要がある。これは生物学的本能だと言えよう。しかし、この信頼には限界がある。群れの内部では信頼が支配しても、他の群れとの関係にまで信頼を拡張することはできない。群れが別の群れと協調行動を取ることはあるが、激しい対立が起きることもある。だから信頼が普遍的なものとなることはない。 生物学的本能の限界を超えるためには、理性的な判断力が要請される。そして、不完全とは言え、親族や地域社会を超えて人々の信頼関係が拡がっている背景に、理性の存在を指摘することができる。理性は生物学的本能に基づく信頼と協力行動を対象化し分析する。そしてそれを社会の構築、行動の指針に応用する。それにより信頼が普遍化する。しかし理性にも限界がある。理性は十分な生物学的な基盤がなく脆弱なものでしかない。理性に基づく判断や行動は容易に裏切られる。また理性は、協力行動だけではなく、利己的な行動もまた対象化し、分析し、それを社会に応用する。そこでは、他者や社会共通の財は、私利私欲を満たすための道具となる。それは信頼を強化、普遍化するよりも寧ろ弱体化する。信頼が弱体化すれば市場は混乱し社会は退廃していく。理性は高度な文明と合理的な社会制度を生み出す力であると同時に、人と社会を堕落させる力でもある。 信頼という根源的な存在を巡って、生物学的本能と理性が調和し共に良い方向に発展するとき、人間社会はよりよいものとなる。そしてそこでは人間社会という枠を超えて自然環境や他の生物たちへの配慮も深まっていく。 さて、このような希望は現実化されるだろうか。その兆しはある。だがその逆の方向、退廃への兆しもある。今はどちらに向っているのか分からない。ただ前者であることを切に望みたい。 了
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