☆ キリスト教と西洋 ☆


 語るほどの知識も信仰も無い者が、キリスト教を論じるのは僭越だと分かっている。しかしアジア諸国など新興国の台頭で相対的に力が弱まったとは言え、依然として世界をリードしているのは西洋諸国、キリスト教圏だ。それゆえキリスト教に関心を持たないではいられないし、語る権利もそれなりにあろう。

 現代の西洋は世俗化されキリスト教の影響など大してないと考える者もいるかもしれない。しかし進化生物学者のリチャード・ドーキンスが7年前「神は妄想である」などという刺激的なタイトルの本を書きベストセラーになったことからもそれが間違いであることが分かる。公での批判が自由にできるという点で世俗化していることは事実だが、その一方でこのような本が書かれベストセラーになること自体がキリスト教の影響力が依然として巨大であることを窺わせる。一方、文芸評論で名高いテリー・イーグルトンが直ちにドーキンスへの反論を著しキリスト教を擁護している点も、キリスト教の影響力を如実に示している。イーグルトンと言えばマルクス主義者と呼ばれることもある、どちらかと言えば左翼的な人物だがキリスト教の存在意義を肯定している。西洋社会にとってキリスト教と神は今でも最高に重要な存在として屹立している。

 ところで、キリスト教でまず驚きそして理解が難しいのは、全知全能である神が何故、人の子イエスとしてこの世に現れ、人の手で十字架に掛けられ人として死ななくてはならなかったのかという点だ。答えは「贖罪のため」と言われる。しかしそれは問題をずらしただけに過ぎないように思える。なぜ神が原罪を犯した人間を救済するために、自らが人として現れ死ぬという通過儀礼を執り行わなければならないのか理解できない。イスラム教では、神は全知全能、思いのままに悪しき者を罰し、善き者に褒美を与えると教える。キリスト教よりもイスラム教の教えの方が断然理解できる。全ての者が原罪を背負っているとしても、良き行いをした者は救い、悪しき行いをした者は罰する、それで十分ではないか。しかもイエスが贖罪のために死んだのに、その後も人間社会は悪に満ちている。

 そこで、私の勝手な解釈だが、神は人間に機会を与えたと考えてみる。人の子イエスとして現れた神に、人々が畏怖し従うかどうか試験をした。しかし物の見事に落第。あろうことかイエスを十字架に掛けてしまう。十字架に掛けられたイエスは最後に、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫ぶ。この悲痛な叫びは、人の子イエスつまり神であり人間でもあるイエスの人間として顔が、「神よ、なぜ人間を斯くも愚かで弱い者としてお作りになられたのですか。」という嘆きの声だったと解釈できる。

 だが、だとすると、なぜ神は人間を滅ぼさなかったのか。旧約では、神は悪徳の街ソドムとゴモラを一瞬にして葬っている。なぜ人の子イエスは斯くも寛容だったのか。マグダラのマリヤなどイエスを信じ最後まで付き従った者たちがいたからだろうか。しかし12人の弟子すら裏切った。金でイエスを売ったユダだけではない。第一の弟子ペテロですら、イエスが捕まると、イエスの予言通り、我が身かわいさで鶏が鳴く前に三度「(イエスのことを)知らない」と嘘を吐く。後悔したユダは自殺し、悔悛したペテロは命を賭してイエスの教えを人々に伝える。だがそれにしても人間は余りに愚かで弱い。機会を与える価値があるとは思えない。だとすると、人間に機会を与えたという私の解釈は辻褄が合わない。結局、神が人の子としてこの世に現れ十字架に掛けられた理由は分からない。

 多くの偉大な西洋の思想家にとっても、これは難問だった。優れた科学者であり哲学者であったパスカルは「人は神が存在することに賭けなくてはならない」と冒涜的とも取れる言葉で信仰の必要性を力説した。だがこういう言葉を述べなくてはならなかったところにパスカルの苦悩が窺える。スピノザは聖書に記された奇跡を否定しながらも、神=自然=実体と論じ、神を全き存在として力強く肯定する。それにも拘わらず(ある意味では当然予想されることだが)スピノザは無神論者という非難を浴びる。ヘーゲルは、神を絶対理念という抽象化した存在へと一旦は棚上げするが、弁証法的な歴史において神=絶対者を全き存在として現前させる。ヘーゲルの弁証法はまさしくイエスの奇跡を哲学的に体系化する試みだった。

 だが、これら偉大な思想たちの解釈も人々を納得させるものではなかった。19世紀に入ると、自然科学と技術、資本主義の目覚ましい発展も手伝い、懐疑主義、無神論が台頭してくる。神が存在しないとすれば、聖書はフィクションとなり、人の子イエスの謎は疑似問題として解消される。それに対して、キルケゴールは神への信仰によってのみ人間は生きることの意義を見い出すと説く。しかし彼も世俗化した教会を介してではなく単独者として神と直接向かい合うことを求める。つまりキルケゴールのキリスト教はもはや伝統的なキリスト教ではない。ニーチェは「神は死んだ」と宣言し、キリスト教を否定して新しい神を求める。マルクスは無神論、唯物論へと舵を切る。マルクスにおいてキリスト教は民衆の阿片に過ぎず、到来するべき共産主義社会においては消え去る運命とされる。

 こうして19世紀以降、すでに世俗化していた西洋社会で、キリスト教の権威と影響力は精神面でも徐々に薄れていく。それに伴いイエスの奇跡も思想の課題ではなくなっていく。問題が解決された訳ではないが、解消された。それは信仰の自由を不可欠の要件とする現代的な人権思想へと繋がっていく。

 さて、このような論考が如何に薄っぺらなものであるかは分かっている。キリスト教の伝統とはほど遠い日本という社会に生きてきた者にとって、人の子イエスの奇跡はリアリティに乏しいものであり、それに関する考察が深さを欠くことは避け難い。それは古代ギリシャから現代に至る多様な西洋哲学、西洋思想が書店の本棚を賑わせているにも拘わらず、日本人の思考と行動に影響を及ぼすことが乏しく、知的なアクセサリーに留まることと通じている。それでも、神が人の子として現れ十字架に掛けられ人として死ぬという展開は強く心を揺さぶる。そして、このような奇跡が、その知的営みの根底にある西洋には底知れぬ力と恐ろしさを感じないではいられない。黒船来航から160年が経過した。しかし日本にとって西洋は依然として恐るべき他者であり続けている。


(H25/9/15記)


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