☆ 書くこと ☆


 若い頃、将来作家になろうと思い、日記をつけていたことがある。ところがある日、今となっては理由を思い出せないが、日記を書くのを忘れた。その日以来、日記帳のページが空白になる日が多くなり、いつしか書く気力は失われ、日記帳もどこかに消えてなくなった。

 書くことは、話すことと並んで人間の最も基本的な行為に属する。しかし話すことと比べて、書くことは格段に大きな労力を要する。人には声帯という話すための固有の器官があるが、書くための固有の器官はない。それゆえ話すことは苦もなくできるが、書くことは容易くできない。小説家や評論家、記者など書くことが専門の者ですら、書けなくて苦労することがある。

 しかし話すことが容易いならば、まず話し、それを文字に写し取ればよいではないかと思えるかもしれない。だが話し言葉を綴っていってもまともな文章にはならない。小説ではしばしば登場人物が長広舌をふるう場面に出くわすが、現実には原稿を用意しない限り、理路整然と長々と話しをすることはできない。弁がたつ者でも、アドリブで話す時には、ところどころで言葉が途切れ、言い直したり、同じことを繰り返したりしながら話しを進めていく。だから話すことから書くことは導けない。書き手には、高い論理的整合性と統一性が求められるからだ。同じ言語記号を使っていても、話すことと書くことは決定的に異なる。

 人は他の動物とは比較にならないほど高い論理的能力を有している。しかし、書くための固有の器官がないこともあり、一部の者を除いて、長くて理路整然とした文章を容易く書けるほどにはその能力は高くない。だから多くの者が書くことに苦労する。私が日記を付ける習慣を失ったのも、自分で意識している以上に書くことが負担になっていたからだと思う。よほど高い才能を持つ書き手でないと、はっきりとした目標がない限り、書くことは続かない。ほとんどのブログが読者を獲得できないまま自然消滅することがそれを証明している。一方ツイッターが人気を集めているのは、それが話すことに近いからだと想像される。

 さらに、書くことが辛い理由に、その場に読み手がいないということがある。話す時には聞き手がその場に居て、すぐに応答してくれる。しかし書くときにはその場に読み手はおらず、書くことに対する応答がない。だから書くことは話すことと異なり途方もなく孤独な作業になる。

 しかし、だからこそ書くことは創造へと繋がる。話すことは日常を維持するために不可欠だが、日常を超えていく作用を有することは少ない。日常は基本的に慣性で動いており、論理性は要請されない。寧ろ論理性は排除される。それゆえ論理性に乏しい「話す」という行為が日常を維持する。一方、書くことは、その労力と孤独(=他人に煩わされない)が故に、高い論理性を有し、しばしば日常には解消されないものとなる。逆に、日常に解消されないものが書くという行為に、その作品へと結晶化されると言ってもよい。

 残念ながら、私には才能も気力も欠けているらしく、よい書き手にはなれそうもない。それでも日記をつけ忘れた日が恨めしい。才能と気力で劣っていても、習慣と練習である程度は補うことができる。日記を絶やさず書き続けていれば、日常を超える何かを生み出すことができたかもしれない。だが後悔先に立たずで、失われた時を取り戻すことはできない。今の私にできることは最初からやり直し、習慣を身に付けることだけだ。尤もそれには聊か歳を取り過ぎている感がある。しかし若い頃の野心がなくなった分、書くということを純粋に楽しめるようになった。どうやら、まだまだ望みはありそうだ。


(H25/8/17記)


[ Back ]



Copyright(c) 2003 IDEA-MOO All Rights Reserved.