もし天変地異で人口が一挙に1千万人以下になったら、日本は立ち行かなくなる。だが元々人口が1千万人以下だったら、どうだっただろう。もっと良い社会が実現していたのではないだろうか。 先進国には大きく分けて二つのタイプがある。一つは自由な競争を重視し国家の市民生活や企業活動への介入を極力排除するタイプ。人々は自由を謳歌し勝者の得る物は巨大だが、格差は大きい。言うまでもなく、このタイプはアメリカに代表される。もう一つは福祉を重視し基本的人権を侵害しない範囲で国家が積極的に経済活動に介入するタイプ。市民は高い税負担を求められるが、格差は小さく、みな安心して暮らせる。このタイプはフィンランド、スウェーデン、ノルウェー、デンマーク、この北欧4か国に代表される。 後者のいわゆる福祉国家は非効率でグローバルな競争に勝てないと言われることがある。しかし北欧諸国は教育水準が高く、技術力に秀で、国際競争力は高い。しかも民主制と人権において世界で最も進んでいる地域と評価されている。北欧諸国は国際政治の世界では比較的地味な存在だが、政治、経済、文化など多くの領域で世界各国の模範とすべき存在になっている。日本はひたすらアメリカの背中を見て、アメリカの後追いをしているが、寧ろ北欧を見習うべきではないだろうか。日本人の心情、価値観からしても、アメリカ型より北欧型社会の方が似合う。 だが話はそう簡単にはいかない。日本の人口は1億2千万を超える。これに対して北欧4か国は、人口が最も多いスウェーデンで925万人、他の3国は500万から550万人程度。つまり、日本よりも人口が1桁以上小さい。一方日本が愛してやまないアメリカは人口3億人強で、日本の倍以上だが、北欧諸国との間ほどの差はない。つまり、人口規模からみると、日本は北欧諸国よりも遥かにアメリカに近い位置にある。 ルソーは、民主制は小国に、君主制は大国に相応しいと語った。18世紀の思想家の言葉に全面的に賛同するつもりはないが、民主制が小国に相応しいというのは現代でも正しい。日本でも国政は遠い存在で一般市民は関与が難しいが、区市町村では政治は身近な存在で、関与の余地も比較にならないほど大きくなる。都道府県はその中間だが、市民の関与の余地はまだ相当に大きい。北欧諸国の人口規模はまさしく日本の都道府県に相当する。人口だけが全てではないとは言え、北欧諸国で、民主制と人権が世界で最も良く機能し、市民が政治を信頼し、高福祉・高負担と国際競争力が共存している秘訣がここにある。それと比べると日本は余りにも人口が多い。 中国の共産党一党独裁と人権抑圧はしばしば非難の対象となるが、人口13億の中国で民主制を機能させることは容易ではない。インドは世界最大の民主制国家と言われるが、その人権状況から民主制が十分に機能しているとは言えない。日本も、民主党政権の物の見事な失敗で明らかになったとおり、政権交代というシステムが確立できておらず、民主制が機能しているとは言い難い。アメリカは確かに最大の民主制国家であるが、それは州の権限が強く、一つの国家に匹敵する存在であることによるところが大きい。一つの州で言えば、その人口規模は日本よりも遥かに小さくなる。イギリス、ドイツ、フランスなど欧州の大国は民主制国家と言えるが、それはこれらの国で現代の民主制が生まれたという歴史的伝統によるところが大きい。 もし日本の人口が1千万人以下、北欧4か国程度であったならば、民主制は機能し、人権は充実し、政治への信頼を背景に福祉国家(高福祉・高負担)と国際競争力が共存しただろう。また1千万人以下であれば、農業と漁業で食糧の完全自給も可能で、余剰を海外輸出することも考えられる。日本は今よりもずっと穏やかで幸福だっただろう。平和な時代には、大国であることのメリットは少ない。だが1億2千万を超える人口を抱える日本は、好むと好まざるとに関わりなく、アメリカや中国に近い大国路線を余儀なくされている。正直、残念なことだと思う。 了
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