飛ぶボールだったと騒いでいる。言われなくても試合を観ていれば分かる。投げて打っている選手はもっとよく分かっていたはずだ。それでもこのミエミエの真実を皆黙りとおしていた。いや「去年と変わらない」と嘘を吐く者もいた。 非難するつもりはない。ホームランが増え、逆転試合が増え、サッカー並みのロースコアが多かった去年よりプロ野球が楽しくなった(ファンのスワローズが負け続けているので今一つ楽しくないのを別にすれば)。不思議なことはなぜ人はこんなにすぐに分かること、しかも騙す必要性がないことで嘘を吐くのかということだ。 筆者も数えきれないほどの嘘を吐いてきた。だが自分でもなぜ嘘を吐いたのか、理由が分からないことが多い。20世紀前半に活躍したイギリスの哲学者ムーアのように、「君は嘘を吐いたことがあるか」と尋ねられて「勿論あるよ」と答えたところ、それが人生で初めての嘘だったに違いないと言われるほど正直な者もいないではないが、ごく少ない。ほとんどの者がたくさんの嘘を吐く。そして、なぜ嘘を吐いたと問い質されても答えられないことが多いに違いない。 人は理由があって嘘を吐くと考えられているが、それは違う。確かにはっきりした理由があって嘘を吐くことはある。自分の身を守るため、虚栄心のため、人の気を惹くため、組織のため、人をたぶらかすため。だが明確な理由があることは少ない。むしろ理由もなく嘘を吐く。 嘘を吐くという行為は、人間の本性に属し、動機や理由に先立つ。明確な理由があって嘘を吐いていると信じている時ですら、理由は、嘘という行為を正当化するために後から付け加えた二次的なものに過ぎない場合がある。 おそらく、それは多くの動物に見られる擬態や不可思議な求愛行動などに起源をもつ。それが社会的な次元に昇華されたときに「嘘」となる。だが、この考えは矛盾していると言われるかもしれない。生きるために共同体に属することが不可欠な人間にとって、嘘は共同体を危険に晒す原因となる。だからこそ古今東西を問わず、賢人たちは嘘を厳しく戒めてきた。そして人々はそれに従い、嘘は重大な道徳違反であると認めている。だから人は嘘を吐くと疾しさを感じる。それなのに嘘が人間の本性の一部だということがありえるだろうか。 しかし、おそらくそれが真実なのだ。生命体はどのような種でも多かれ少なかれ不要なものを抱え込んでいる。それは時には活力となることがあっても、たいていは無意味だったり有害だったりする。しかし生命体がそういう一見無意味なものを抱えて込んでいるからこそ、生物進化が可能になるとも言える。人間もまたそういった多くの過剰を抱えているが、嘘もその一つと解釈することができる。しかも、その力は大きい。それは共同体を脅かす危険物で、同時に発展の原動力でもある。だとすれば嘘を人間の本性と考えることもあながち間違いではない。人が嘘を吐くのは、それが人の本質だからだ。 古代より、「嘘」は、「愛」と並び芸術の最大のテーマとして君臨している。「愛」は共同体の絆であり「嘘」は破壊者だ。両者が文学の2大テーマであることが、嘘の本質性を示唆している。だとすると、人はもっと嘘に寛容であるべきなのかもしれない。とは言っても、周囲は私の嘘を許さないし、私も他人の嘘を許さない。この辺りは実に不思議だ。 了
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