「足腰を鍛えるためにはうさぎ跳び」、「発汗して体力を消耗するから、マラソンでは途中で水を飲んではいけない」、いまこんなことを言ったら、体罰だと批判されよう。しかし、半世紀前の子供時代はこれが常識だった。 熱が出て医師に行くと必ず注射をされ、喉に赤チンのようなものを塗られた。子供たちは注射を恐れて医者に行くのを嫌った。今では医者に行っても、注射をされることはまずない。注射は血液検査かワクチン接種に限られている。注射は効果が速そうだが、実際はそれほどでもなく、逆に副作用による危険性が高い。だから今では医者は滅多なことでは注射はしない。しかし注射が当たり前の時代に育った者としては、何もしない医者に今でも聊か違和感がある。 風邪をひくと抗生物質を当たり前のように処方される時代があった。90年代くらいまではそうだったと思う。今では、風邪のほとんどは様々な種類のウィルスが原因で、(細菌にのみ有効な)抗生物質は効かないこと、抗生物質の濫用が耐性菌の増加に繋がっていることから、細菌感染であることが明らかで熱が高いときにしか処方されない。今の若い人はそれが当たり前になっているだろうが、抗生物質を普通に処方された世代としては、風邪をひくと習い性でどうしても抗生物質が欲しくなる。効かないはずなのに、なぜか抗生物質を服用すると効いてしまうから不思議だ。偽薬効果が如何に強力かを物語っている。抗生物質そのものではなく、抗生物質を服用したという認識が病気を治療する。 こうして昔の常識の多くが今では非常識とみなされている。そして、その背景には科学的な知見の積み重ねがある。だが科学的な知見が活かされなかったり、科学的な知見が集まらなかったりする分野がある。 子供時代、原子力は効率がよくクリーンなエネルギー源だと信じられていた。子供心にも、人類の未来にとって原子力は欠かせない存在だと思っていた。鉄腕アトムは原子力で動いていたし、ウルトラセブンに登場するウルトラ警備隊日本基地の動力源は地下の原子炉だった。原子力の平和利用は人類文明の輝かしい象徴ですらあった。その後、スリーマイル島とチェルノブイリの原発事故、放射能漏れや臨界事故による尊い命の喪失、兵器への転用などで、原子力の利用には疑問が投げ掛けられるようになった。特に欧州各国では原子力には否定的な考えが拡がった。それでも日本では、2年前の福島原発事故までは原子力の利用を支持する者が多かった。自民党だけではなく、民主党も二酸化炭素削減のために原子力発電を増やすことを主張していた。そして、未だに原子力を支持する者が少なくない。原発再開を望む声は多く、発展途上国に日本の原発を積極的に売り込もうとしている。生活が掛かっている地元民が原発再開に期待することは理解できるが、そうでない者にも原発は不可欠だと主張する者がいる(注)。安全が神話に過ぎないこと、時間と共に放射性廃棄物の処理が益々困難になること、こういう科学的な知見が揃っているのに、原発政策の見直しが常識になっていない。 (注)筆者は、すぐに原発を廃止することは困難で得策でもないが、20年から30年後までに廃止するべきだと考えている。 地震の研究にも似たところがある。地震の予知は難しい、いや寧ろ不可能だと言うべきだろう。それは複雑系の理論や地球内部の状態を知ることの技術的な難易度の高さから必然的に帰結する。だが未だに日本は地震予知に期待を掛けている。そして大地震の確率が発表されるたびに一喜一憂している。だが確率の予測には科学的な根拠は乏しい。地震の研究が無意味なのではない。地震の研究は地球内部の理解に大きな貢献をしている。地震研究は、想定される被害を推定することに役立ち防災に大きく貢献する。世界有数の地震発生国である日本が地震の研究に多額の資金を投じることには十分に意義がある。だが予知は事実上不可能であること、地震発生の確率に大した根拠はないことを認識したうえで、何をすればよいかを考えないといけない。しかし大きな被害を出す大地震の数は限られていることもあり、科学的な知見が十分に積み重ねられておらず、まだまだ、ここで述べたような考えが常識にまでは至っていない。 「常識」は変わる。変える必要がある常識も少なくない。だがどれが変えるべき常識なのかは、なかなか判断がつかない。残念ながら半世紀後はこの世に居ないとは思うが、それでも今の常識がどう変わっていくか追跡していきたいと思う。ところで愛煙家の知人は「「喫煙は有害だ」という現代の常識が変わるに違いない」と言っている。だがこの常識が変わることはないと予想しておこう。 了
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