☆ 歴史 ☆


 歴史とは、解釈と体系化により生み出される。歴史的出来事は客観的な事実であるが、歴史的出来事をただ時系列で羅列しただけでは歴史は構成されない。

 今に始まったことではないが、歴史認識を巡って近隣諸国との軋轢が絶えない。ここで混乱の原因の一つが、歴史的出来事と歴史の違いを認識していないことにある。歴史的出来事の存在自体が、解釈し構成されたそれぞれの歴史観に影響を受けるとは言え、歴史的出来事は一定の客観性がある。「南京事件」や「従軍慰安婦」は歴史的出来事であり、立場の違いを超えて、事実を的確に認識し同意することが不可欠だ。事実を隠蔽したり歪曲したりすることは許されない。

 一方、「歴史」には解釈と体系化という作業が加わり、その作業にはそれに先立つ歴史観が作用する。それゆえ日本と諸外国で歴史認識が異なってくることはありえる。ところが、そのことを理解しないがゆえに、しばしば不毛な論争が起き無用な軋轢が生じる。同じことは国内でも生じている。これらの問題を解消するには、互いに多様な歴史観がありえることを認める必要がある。

 しかし注意すべきことがある。このような相対主義は、一つ間違えると無制限の相対主義へと後退する。たとえば戦前の日本の侵略行為を否定することなどはその一例と言ってよい。近年、日本国内でもそういった動きが目立ち、侵略を認めることが自虐史観だなどと言い立てる者がいる。こういった極端な歴史観を正当な歴史認識の一つだと認める訳にはいかない。相対主義は認めても、その範囲には緩やかだが一定の枠が嵌められるべきなのだ。

 そんな枠は存在しない。そう主張する者がいる。だがそんなことはない。国境を越えて現代世界に生きる人々の共通の願いに基づき枠を定めることができる。共通の願いとは何か。それは誰もが平穏な暮らしを望んでいるという事実だ。確かに、厳しい現実の中で好戦的になっている人、恨みを抱いている人がたくさんいることは認める。それでも、そのような人々も平和を望んでいる。寧ろ、その行動は平和が実現されない悔しさやもどかしさに基づいている。それゆえ平和を模索するために有益な歴史認識が求めるべき枠組みだということになる。

 戦後の日本は、戦前の近隣諸国への軍事的行動を侵略行為と認め、軍事行動から対話へと大きく方向転換をした。そしてそれは日本の平和に大きく貢献し、微力だとしても東アジアの平和にも貢献した。現実には、日米安保や自衛隊の存在など多くの矛盾を抱えている。軍事力を前面に出して自国の利益を確保しようとする国が多数存在するという現実を忘れる訳にもいかない。だが、それでも平和に貢献する歴史認識・歴史観こそが今真摯に求められている道であることには変わりはない。侵略を否定することは軍事国家、世界の人々の願いに反する道へと繋がる。多大な犠牲の下で手にした平和を脅かすような歴史認識を大声で叫び、それこそが正しいかのように宣伝する者がいるのは悲しい。歴史認識には多様なものがあってよい。だが平和という希望に反するものまで正当なものだと考える必要はない。


(H25/5/18記)


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