家族とは何か、この問いに答えるのは案外難しい。婚姻関係にある男女、その子供たち、普通これが家族の構成員だが、これは果たしてどのような基盤の上に成立しているのだろう。 法制度の下に成立している。法が変われば家族の形態も変わる。消滅することもありえる。このような考えには、家族は、人という生物の本質的な性質、生物学的な基盤があり、単なる法制度ではないという反論がある。しかし、これは正しくない。様々な生物をみると、専らメスが子供を育てる種もあれば、メスとオスが分担して育児をする種もある。専らオスが育てる種もある。子供を産んだメスの姉妹たちが共同して育てる種もある。そもそも一対のオスとメスの関係が長期に亘る種は少なく、オスは生殖行為が完了するとどこかに行ってしまう種も少なくない。人に近い生物種、たとえば類人猿でも婚姻関係の継続や、オスとメスの両性による子育てなどは一般的ではない。人類も、原始時代には、現代的な意味での家族制度は存在しなかった。 マルクスとエンゲルスは、家族は歴史的産物であり、決して自然的な存在ではないと指摘する。そして、共産主義社会では家族の形態は変わる、ないしは消滅すると予測した。特にエンゲルスは家族とは私有財産を相続するための制度、搾取/非搾取の差別的社会体制を維持する機構だとみなした。古代ギリシャでも、プラトンは両親と子供からなる家族制度を否定し、子供が産まれたらすぐに産みの親から引き離し、社会全体で子供を育てるべきだと主張した。そこでは、大人はどの子どもが自分の子供か知らず、子供もどの大人が自分の産みの親か知らない。そういう社会の方が、遥かに公平な育児ができ、社会もよくなるとプラトンは考える。 近年、欧米諸国では同性婚を認める動きが広がっている。これは家族というシステムに大きな変化をもたらす可能性がある。まず、同性婚の容認は、「家族とは、子供を産み、育てる場だ」という思想を相対化する。歴史的にみて、子供を産み育てるということを中心に据えることで、家族制度を自然なものと捉える思想が再生産されてきた。しかし、同性婚の容認はこの思想を解体する。そのとき、家族は親密な共同生活圏へと変化していく。さらには、婚姻を同性に認めるだけではなく、複数者(>2)の婚姻も認めるべきだという考えもある。婚姻そのものを廃止すべきという意見すらある。財産権はどうなるか。財産は共同生活者の単位で共有し、誰かが離脱するかこの世を去ったら残りの者が相続する(相続税は支払う)。 これは決して現在の男女の婚姻と両親・子供たちからなる家族を否定することではない。ただ、より多様な家族形態の下に(「家族」という言葉自体を変える必要があるかもしれないが)、これまでの家族形態が包摂されることになる。それでも、おそらく、これまでの両親・子供からなる家族形態が大多数を占めることになろう。家族制度は自然的な基盤を持つものではないと言ったが、オスとメスが求め合うのは有性生殖する種の本能に基づく。子供を守ろうとする強い性向も生物的な基盤がある。だから、家族制度の根本的な変更により、既存の家族が崩壊するなどと心配する必要はない。重要な点は、子供を産み育てる場としての家族という固定概念を相対化し、支え合う親密圏として家族形態を再構築することにある。これにより、独身者、子供のいない夫婦、親がいない子供、シングルマザー、シングルファザーなども、周縁をなすマイナーな存在ではなく、両親・子供たちからなる家族と同じ権利・義務を担う共同体の構成メンバとして認知されることになる。そのような共同体では、両親を早くに亡くした子供が辛い思いをすることもない。身寄りのない高齢者が生きがいを失くすこともない。多様で重層的な親密圏が、行政からの支援の他に、様々な方面から人々の生を支援する。確かに、このような社会でも、親密圏から離れる者はいるだろうし、それを望む者もいる。彼又は彼女たちが他人の権利を侵害しない限りでは、如何なる生き様も認める。だがいずれは他人の助けが必要になる日が来る。そのときには彼と彼女たちを受け容れればよい。 「このような考えは夢想に過ぎない。プラトンやマルクスの構想は理想ではなく、寧ろ、生を国家権力に従属させることになる。一見全ての者が、重層的なシステムの中で幸福に暮らせるように見えるが、実はこの重層的なシステムは恐るべき管理・独裁社会へと繋がっている。多様な世界を纏めるには独裁的な管理機構が不可欠だからだ。」こういう批判がある。事実、ここで述べているようなシステムの実現は容易ではないし、良いことだと断定はできない。たくさんの者が、生殖行為を捨て、クローン技術で自分の子孫を残すようになる、などという状況はぞっとしない。だが、その可能性はなくはない。 しかし、問題が存在することを認めたうえで、家族というシステムの抜本的な改革を志向することは大きな意義がある。高齢化、少子化、独身者の増加、シングルマザーやファザーの増加、同性婚容認への要求の広がり、これら現実に抗うことはできない。そうであるならば、それを否定的に捉えるのではなく、肯定的に新しい可能性として認識することが必要になる。 現行の家族は自然的なものではないとしても、依然として圧倒的な影響力を有する。それは容易に変わらないし、急激に変えるべきでもない。だが高齢化に伴う介護の問題などを考えるとき、既存の家族制度を前提にしていたのでは限界がくる。いやすでに来ている。いまこそ「家族」について考え直すべきときだと思われる。 了
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