「穴を掘って埋めるだけでも意義がある」とケインズは述べている。失業手当を出すよりはそれ自体は無駄なことでも公共事業に金を出す方が有益だと言う。事実、公共事業は直接的な投資だけではなく波及効果を生み経済を活性化する。失業保険で働かないまま生活を続けるよりは雇用されて働いた方が社会にとっても本人にとっても望ましい。金融緩和と防災減災のために10兆円の財政出動を行う安倍政権の政策はこの観点から評価できる。株価が高騰するのも当然なのかもしれない。 しかし、私たちの経験は、10兆円の投資の少なくない部分が「穴を掘って埋めるだけ」に終わる、ないしは、「掘っただけで放置」に終わることを教えている。それだけならばまだ幸いだが、貴重な森林を伐採して穴を掘り、伐採した木々を埋めるということにもなりかねない。それでも財政出動は経済的には有益だということになる。だが、どこか胡散臭いものを感じる。 安倍政権の政策が功を奏して景気が上向き、社会全体が良い方向に動き出せば、前任の野田政権は愚かな政策を取っていたことになる。財政健全化のために支出削減と増税を行う必要があると野田前首相は説いた。それは間違っていたことになるが、本当にそうなのだろうか。国家は私企業や私人とは異なる。しかし赤字が増えたら支出の削減と収入増を目的に料金(税金額)を引き上げるのはごく自然で常識的な考えではないのだろうか。 景気を良くするためには、人びとが金を使う必要がある。自転車をこいで約30分、そこに素晴らしい自然があるとしよう。それでも、経済学的には、自転車をこぐ者が貧乏で支出するお金がない場合を除き、近場ではなく新幹線や飛行機を使って遠くまで旅行し散財することが推奨される。それが経済活性化に繋がるからだ。だが、これは明らかに不健全な思想で、現実の社会がこの思想どおりに動いているとしたら、現代社会はどこかおかしいということになる。そしてバブルで分かる通り事実そうなっている。近場の環境は遠い土地の環境よりも、身近で大切にしようという気持ちが起きやすい。「旅の恥はかき捨て」でも、自宅の汚れは綺麗にする。環境を守り、老若男女が健康的で幸福な生活を送るためには、人びとがまずは近場の環境と他者の生活に配慮して行動することが欠かせない。いつも留守にして、仕事や遊びで遠くにばかり行って近場の環境と生活を顧みない者は、たとえ本人は豊かになっても、社会を良くする力にはなりえない。ところが資本主義という社会システムは、こういう不健全な生活と経済活動を推奨している。その結果、資源を浪費し、自然を破壊し、貧富の格差並びに都市と地方の不均衡に悩むことになる。 こうしてみていくと、(現代の主流派)経済学は、資本主義的市場経済の継続を無条件の前提にし、経済という領域において貨幣換算が可能な財にのみ着目して理論を展開していることが分かる。それは、経済学が多くの点で限界を持ち過信して濫用してはならないことを教える。しかしながら、現実の経済政策は経済学に強い影響を受けており、その経済政策は現実社会を大きく左右する。 マルクスの資本論は正しいとは言えない。単純労働と複雑労働を正確に換算することは不可能で(マルクスは簡単だと述べている)、マルクスの厳密な労働価値説は現実的には意味がない。資本論の根幹をなす剰余価値学説を実証するためには、必要労働時間を決定する機構が正確に規定されている必要があるが資本論では極めて曖昧な記載しかない(「労働力の再生産に必要な財の価値」など)。資本主義崩壊の原因として利潤率の長期的低下が予言されているが、それは剰余価値率一定という証明されていない(できない)仮説が前提とされている、など多くの難点が資本論にはある。それでも資本論を紐解くと、それが現代においても依然として重要な意義を持つことを実感する。資本主義は絶対ではない、富の蓄積と共に貧富の格差は拡大する、資本主義の下で土地と資源の濫用が起きる、利子率は自然的な根拠がなく需要供給関係だけで決まってくる(つまりバブルや、信用崩壊の可能性がある)など、(たとえ結論を導出する過程が間違っていたとしても)マルクスの資本論が多くの局面で資本主義の限界と不健全性を的確に予測してことが分かる。 マルクスの正しさは、その理論の正しさというよりも、彼が生きた時代、特に貧困が極まっていた若き時代に肌で感じたことに基づいている。「資本主義は歴史の終着点ではない」、「資本主義は超えるべき壁」とマルクスは直観した。その直観はおそらく正しかった。その後、資本主義はマルクスやマルクスの後継者たちが予想したよりは遥かに上手く機能した。しかしそれは資本主義というシステムの卓越性によるものではなく、民主制と人権擁護を求める政治的改革が資本主義の暴走を抑止してきたからではないだろうか。もし政治的改革が功を奏することがなければ、共産主義による世界革命が成就し、社会主義的システムが登場し、計画経済の破綻が露呈し、人々の自由な活動を保証する市場経済が拡大していくという順番で歴史は進展したと思える。つまり概ねマルクスの予言通りになっていた。 そもそも、「資本主義」という言葉はマルクスの造語で、この言葉自体に否定的な匂いが漂う(「資本」という無機的、非人間的な物が人を支配するという印象を与える)。資本主義を擁護する者たちが「資本主義」という言葉を使うのをみると、どこか笑える。「すでに自分で自分を否定しているではないか」と突っ込みたくなる。そのことが分かっているのか、いま世界で最も読まれているマンキューやスティグリッツの経済学教科書では、「資本主義」という言葉はほとんど使われていない。 いずれにしろ、環境、資源、貧富の格差などの諸問題で苦しみ、生産効率が飛躍的に向上したにも拘わらず労働者は長時間労働が強いられ、寿命の延びが現役引退後の生活不安に繋がり、公平には程遠い政治が蔓延しているという現実は、政治改革による改善にも限界があり、いつまでも資本主義を続けていく訳にはいかないことを示唆しているように思える。「資本論」を幾ら読んでも、それだけでは未来は開けない。しかし、安倍政権のなりふり構わぬ金融緩和と財政出動、経済活性化のために原発の再稼働を強く要請する経済界などをみていると、マルクスやその他の資本主義に否定的な思想家たちの思想が、たとえ間違っていたとしても極めて意義深いと思えてくる。それは一時的な苛立ちから来るものではない。戦後すでに67年、人びとは同じ問いを繰り返し問い、解答を求めてきた。だが解答は得られていない。同じ失敗と成功を繰り返す。勿論改善した領域はたくさんある。その意味で資本主義はマルクス主義者たちが言うほど悪いシステムではない。それでも資本主義には限界がある。しかし、現状では「では、どうすれば良いのか。」という問いにも答えが見つかっていない。 「資本主義を前提にして、どうすれば良いかを考える」から「資本主義を超えたシステムをどうやって構想し、実現への道を切り開くかを考える」への転換期に差し掛かっていると筆者には思える。極めて保守色が強い安倍政権の誕生は、逆説的だが、資本主義の限界を際立たせることで、問いの視点を後者へと転換するうえで大きな役割を果たすことになるかもしれない。来年がその最初の一歩になることを期待したい。 了
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