☆ 美から技術 ☆


 フィギュアスケートの日本勢の活躍は素晴らしい。五輪で男女ともにメダルを独占することだって夢ではない活躍ぶりだ。ところが、近頃のフィギュアスケートには魅力が感じられない。正直、観ていてあまり楽しくない。

 かつてのフィギュアスケートは、選手の名前で事前に点数が決まっているとすら言われていた。採点は恣意的で、有力選手はかなりの失敗をしても高い得点を獲得し、無名の選手は素晴らしい演技を披露しても低い点しか出なかった。五輪では毎回のように点数で揉めた。あからさまに自国の選手に高い点数を付ける審判が多数いた。日本人の審判は、フィギュアスケートに限らず、比較的公平な判定をすると言われているが、それでもはっきりと日本選手に他国の審判よりも高い点数を付けていた。

 多くの批判を受けて、採点の方法が大幅に変わり、客観的で具体的な採点方法が採用された。これにより点数が規格化され、自国選手への贔屓や有名選手への加点などはなくなった。特に技術が重視されるようになり、伊藤みどり以来、ジャンプが得意な日本選手に有利に働くようになった。これが日本選手の躍進に繋がっていると言ってよい。

 採点が公平になり、採点基準が規格化されたことはよいのだが、弊害も生じているように思える。採点基準の規格化で選手の個性がなくなった。演技には必ず3回転ジャンプを何回かいれないといけない、など演技に大幅な制約ができた。またジャンプが上手に飛べないと点が出ないために、全ての選手が押し並べてジャンプの技を磨くことに傾注する。その成果で、ジャンプは総じて精確で高度になった。だが、その結果、どの選手も同じようなプログラムになる。以前は、一人一人が全く異なるプログラムを演じていた。ジャンプを得意とする選手はジャンプを前面にだし、スピンの得意な選手はスピンを中心とし、四肢の細やかな動きをアピールする選手は、それにそった演技をする、という具合に、一人一人の演技に、他にはない美しさと楽しさがあった。ところが、いまは、皆同じような演技をする。それはそうだ。3回転ジャンプを次から次へと決めないと高い点はでない。ジャンプの精度と高度さに比較すれば、優美さは大した取り柄ではない。BGMが同じだったら、フリー演技ではなく規定演技になってしまうだろう。筆者が魅力を感じないのはこんなところに理由がある。

 フィギュアスケートは、美を披露する芸術ではなく、技術を競うスポーツになった。確かにそれは正しい姿なのかもしれない。美は競うものではなく、そこに(自律的に)在るものだ。本来、順位などは付けられない。しかし、技術は順位を付けられる。自動車の速度のように、明確に順序付けが可能となっている。陸上や水泳が典型のように、スポーツは本来技能を競い、客観的に順位付けができるものだ。だから今のフィギュアスケートはスポーツとして正しい姿と言ってよい。

 だが、それがフィギュアから美や楽しさを奪っているように思える。かつて体操が同じ道を辿った。美から技術へと移行し、そして人々の関心は薄れた。かつては五輪の華とも言われた体操だが、今ではその他大勢の競技の一つに過ぎない。このままひたすらジャンプの高度さと精度を競い合うようになれば、フィギュアスケートも体操と同じ道を辿ることになるだろう。しかし、それが時代の流れなのだろう。すべてをデジタル化する時代が、客観化不可能な美を披露する場だったフィギュアスケートを客観的なデジタル化された数値を競う場へと変容させた。そこに寂しさを感じるのは筆者だけではないと思うが、おそらくこの流れが変わることはない。


(H24/11/26記)


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