☆ いじめ ☆


 子供のころ、いじめられたり、いじめたりした記憶は余りない。周囲で深刻ないじめがあったこともない。しかし、それは私がそう感じているだけで、私の無神経な振る舞いで深く傷ついた子がいるかもしれない。

 そう考えると、思い当たることがいくつかある。中学生のとき、体育の授業で女の子から「頑張って」と声援された時、その子の顔を睨み、「うるさい、ブス」となじったことがある。多分、その子は私に好意を持っていたのだと思う。だが、太めで(私の好みからすると)美人とは言い難いその子は私にとっては好意どころか寧ろ目障りな存在でしかなかった。その子は、美人ではなかったが、大人しくて優しい頑張り屋さんで、大人になってからだったら良さを理解し、声援を照れながらも素直に受け止めることができたと思う。しかし身の程知らずの面食いだった中学生の私にはそんな広い心はなく、相手に対する思い遣りもなかった。彼女がそのときどんな気持ちでいたか、卒業後会う機会もなく、今となっては確かめようもないが、意地悪な一言に深く傷ついていたのではないかと思うと心が痛くなる。私と私の言葉などすっかり忘れて良き伴侶を見つけ幸福な家庭を築いていることを願わずにはいられない。

 いじめる側がしばしば口にする「いじめているつもりはなかった」という言葉はあながち嘘ではない。当時の私も相手を傷つけるつもりではなかった。個人差はあるが、中学生くらいの年齢だとまだ相手の立場になって考えることは難しい。だから残酷なことが平気で出来てしまう。自分を相対化して相手の辛さ、自らの残酷さを想像することができないからだ。

 大人になる過程で、知恵がつき、経験を積み重ねていくことで、他人への思い遣りや責任感が身に付いていく。好きになった女性に無視され、悲しくまた腹立たしい気持ちを抱き、中学生の彼女の気持ちが想像できるようになり、意地悪な言葉を吐いた自分の愚かさにも気が付く。子供はそうやって大人になっていく。大人になるに連れて純真さを失い打算的で狡くなるという面は否定しようもないが、それでも他者との関わりの中で、自分は何をしなくてはならないか、何をしてはいけないかが分かるようになる。そして、そのことこそ子供が大人になることの意味だと思う。尤も57になっても依然未熟な私のような人間も中には居る。

 思春期の子供は難しい。教師は大変な仕事だとつくづく思う。しかし、だからこそ教師と学校の役割が大切になる。ほとんどの子供は様々な問題を抱えながらもいつしかそれを乗り越え大人になっていく。しかし、大津中学校のような悲劇が起きることがある。それを防止できるのは教師であり学校だ。中学生にもなると自立心が高まり、親の目が届きにくくなる。何をしているか、何を考えているか、集団の中でその子がどのような位置にあるか、それを一番的確に把握できるのが教師たちだ。「いじめがあるとは認識できなかった」という言葉を学校関係者から聞くことがある。やむを得ない事情もあろう。しかし校内でいじめがあり、他の生徒たちがそれを認識し、教師に伝えていたとなると、やはり学校側の言い訳だと非難されても致し方ない。

 担任など特定の教師を責めるのは酷だろう。中学生ともなると身体も大きくなり、力の強い子ならば喧嘩をしたら大人の方が負けるかもしれない。校長や教頭、学年主任などが中心になり教師が協力して子どもと接し見守っていく必要がある。ちょっとした一言、振る舞いにも注意が必要だ。また、教師だけではなく地域社会の協力が欠かせない。学校側もそれを積極的に求めるべきだ。それと教師には分かる楽しい授業をお願いしたい。学校の教師の説明を聞いても理解できないが塾の教師の話を聞くとすぐに理解できるという子供たちの声を聞くことがある。詰まらない分からない授業を5時間も6時間も聞かされたら大人だってフラストレーションが溜まる。フラストレーションがいじめに繋がることも当然ありえる。多様な個性と境遇の子が集まる公立校で分かる楽しい授業は容易ではないが、それを何とかするのが専門家の仕事だ。

 いじめとは個別の言動というよりも本質的に特殊な関係性を意味する。子供の世界は不安定で関係性は不断にかつ予想外に変化していく。だから、いじめが、思わぬ場所で思わぬときに、誰もそれを意図することなく生じることがある。それゆえ完全に防ぐことは難しい。だからこそ、学校と家族が中心に大人たちが協力して子供を見守っていく必要がある。そして、子供たちが織り成す世界の土台をできる限り安全で楽しいものにすることが大切になる。それは教師や親だけではなく全ての大人の責任だ。


(H24/8/12記)


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