☆ 死者は物か ☆


 6歳未満の脳死患者から臓器移植がなされた。日本では初めての事例だという。脳死にも、臓器移植にも別に反対するつもりはない。しかし違和感がある。死者はただの「物」でしかないのだろうか。

 「人間は手段ではなく目的だ」とカントは主張した。誰もがカントの考えに賛同する。「人間の尊厳」はカントの思想に完全に一致する。死者から臓器を摘出することは、死者がもはや人間ではなく、手段として利用して良いことを意味する。死者には尊厳はない。

 これには反論がある。臓器移植には、自己決定権が、つまり「死後、自分の臓器を他人に提供して良い」という同意が欠かせない。幼児の場合は保護者である両親の同意が不可欠になる。だから死者の尊厳は守られている、「物扱い」しているのではないという反論だ。だが、それは生きている者の意志であり、死者のそれではない。死者には意識がないから当たり前だと言われるが、そこにこそ「死者は物に過ぎない」という暗黙の前提がある。

 脳死でも心臓死でも、死後、当分の間はたくさんの細胞が生きている。だからこそ臓器移植が可能となる。脳や心臓が機能停止しても、その身体が呼び掛ければ返事をしそうな状態にある限りは、そこに在るのは死者だとしても、尊厳ある人間と考えるべきなのではないのだろうか。

 そんなことを言ったら、臓器移植で救える命が救えなくなると反論される。確かにそれは理解できる。我が子が臓器移植で救われるのであれば、それに望みを託す親の気持ちは痛いほど分かる。成人でも臓器移植で健康になれるのであれば移植を受けたいと願う者は多いし、それを非難するつもりもない。

 それでも、生きている者のためなら、死者を切り刻むことが容認されるという思想には、どこか不自然なところがある。人間は自然の中で生まれ育ち死んでいく。生と死は決して不連続ではない。多くの宗教では死後の世界は生の現実以上に大事にされる。それをニーチェは弱者のルサンチマンだと非難するが、むしろ今よりもずっと自然との結びつきが強かった時代の自然な発想だったように思える。

 現代人は無意識のうちに不老不死を望んでいる。永遠の生など死よりも恐ろしいと強がる者もいるが、それは死が目の前に迫っていない時に言えることに過ぎない。だからこそ臓器移植が広がる。だが、それでも人は必ず死んでいく。死者の臓器を移植しなくては生きていけない状態になれば、臓器移植よりも、死を受け容れるという選択があってよい。そして周囲が支援し残された時間を充実したものとすることの方が、短くともより良き生に繋がることもあるのではないだろうか。


(H24/6/17記)


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