「一番好きな作家はカフカ」。こう言うと「どこかが良いのか」と必ず尋ねられる。カフカはプルースト、ジョイスと並ぶ20世紀最大の作家のひとりと称され、事実、後の文学に決定的な影響を与えた。カフカの影響を受けていない現代文学者など一人もいないとすら言われる。それでも、「カフカは分からない」、「感じるものがない」という読者は多い。私自身、最初はそうだった。 カフカの文学の特徴は、意味の欠如にある。「なぜザムザは虫になったのか」、「ヨーゼフ・Kは何の罪なのか」、「城とは何か」、答えはない。答えがない小説は珍しくないが、カフカは、答えの手掛かりすらない。意味はそこでは完全に欠落している。 カフカの巧さは、意味の欠如が自然の流れにおかれていることだ。意識する、しないに拘わらずカフカの文学を模倣した作品は小説だけではなく、映画、テレビドラマなどに多数見つけることができる。しかしわざとらしく後味が悪いものが多い。カフカの場合は、自然な流れの中で意味が欠落する。作者自身がそのことに気がついていないのではないかと思えるほどだ。 私たちは常に意味を求めている。忙しく働いているとき、何か一つことに集中しているとき、そういうときには、意味はすでに充足されており、殊更新たにそれが求められることはない。しかし、小説を読む、ドラマを観るとき人は必ず意味を探し求める。ミステリーで犯人が誰か推理するように。そして、たいていは答えが用意されている。ところがカフカには自然の流れはあるのに、意味が与えられていない。ただ機械の無機的な運動のように話が進む。そこに何らかの知的興奮を覚えるか、それとも不可解さを感じるだけに終わるかで、読者の評価は分かれる。芸術家や哲学思想家からの絶大なる称賛にも拘わらず、必ずしも一般読者にはカフカが受容されているとは言えない現実は、後のタイプの読者が多いことを示している。 芸術の目的は楽しませることにあるという意見がある。それが正しいとすると、カフカは最高の芸術とは言えない。一方で、真の芸術とは、感性だけではなく知性を働かせるときに初めて理解されるものという考えがある。それが正しいとすれば、カフカは最高水準の芸術に属する。 どちらの考えが正しいか、答えなどない。「カフカを理解できない者は馬鹿だと言いたいのか」というお叱りの声も聞こえてくる。しかし、そうではない。視聴率や発行部数、セールスなど経済的な指標ばかりが評価の基準となる現代、カフカやプルーストに頭を悩ませることにも芸術的な喜びを見い出してほしいと願っている。AKB48は可愛い、佐々木希や武井咲は美しい。それは誰でもすぐに分かる。だが真の芸術とはそんなに生易しいものではない。だからこそ時代を超えて生き残る。カフカを読んだが少しも面白くなかったという読者には、願わくは、もう一度読んでもらいたい。私でも3回目には得るところがあった。貴方ならば2回目には得るところがあるはずだ。 了
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