☆ 春が来て思う ☆


 今年は長い冬だったが、漸く春の気配が漂ってきた。庭の梅が開花した。景色もいつの間にか春色に変わっている。地球というシステムは計算通りに運行している。日本の列車の運行システムは諸外国から驚異的と称賛されるほど正確で遅れることが少ないが、それでも自然の精巧さに比べると取るに足らない。

 ウィトゲンシュタインは、「人々は何故、創造が奇跡で、世界が存続することを奇跡だと思わないのか」と問うた。確かに、世界が在ることだけが不可思議なのではなく、世界が在り続けることの方がもっと不可解だとも言える。物理学者は物理法則を引用するが、全くの笑い話に過ぎない。なぜなら物理学者の理論は所詮、世界が存在することを前提に組み立てられたもので、世界の存在を根拠づけるものではないからだ。物理法則は物理学的世界を前提にして成立するだけで、世界が物理学的世界に還元されることはない。巡り来る春は物理学の根源性を証明しているのではなく、春を迎えて躍動する生き物達の命とそれを与える自然の恩寵こそが、世界の根源であることを示唆している。なぜなら「春」とはそもそも生命から創出される概念だからだ。天体が計算通りに運行しているという事実は二次的な効果に過ぎない。

 人間社会も、元来、春から活動が活発化していた。しか、今は違う。四季に関わりなく人々の活動は旺盛で、生産と消費、廃棄が絶え間なく続く。春の訪れは花粉症の注意警報だと言う者すらいる。人間は自然を半ば超越した存在になっている。しかし、ここでの「超越」には「より優れた」、「遥かに超えた」、「それに依存しない」という意味はない。人間は相変わらず自然的存在で、不死になることは勿論のこと、みずからの生存を自由にすることすらできない。折角の春の恵みを、花粉症で台無しにして、それでも携帯電話片手に「科学技術の進歩だ」と大法螺を吹いている。それでも大法螺だと分かって吹いているのであれば、良質の喜劇と評価できるが、分かっていないで進歩を信じているからお笑い草だ。喜劇ではなく茶番劇に過ぎない。

 それでも、こうやって皮肉を言っていられるのは、物理学を筆頭とする科学技術に基礎づけられた文明の利器のお陰だと人は言うだろう。そのとおり。自然の中で、他の生物と自然淘汰の中で凌ぎを削っていたときには批評などする余裕はなかった。もしそんなことをしている者がいたとしても、仲間からあるいは天敵にすぐに襲われて命を落としている。哲学思想は如何に文明を批判しても文明のお陰で存続できている。いや哲学は文明のお陰で初めて誕生した。世界が存在し続けることは自然の奇跡だが、哲学思想などという日頃役に立たないものが存在しているのは文明の奇跡だ。およそ哲学思想などというもので食べている者はそのことに感謝するべきだろう。

 現代科学技術に根源的な懐疑を投げかけたハイデガーが20世紀最大の哲学者と称されているのも、ある意味で科学技術の賜物だと言える。科学技術が当り前のように生活を支配し、その土台の大部分を占め、もはやそのことを人々が意識することすらなくなっているという現実があるからこそ、科学技術に対する懐疑が改めて深い意義を持つ。それによりハイデガーの思想はいつまでも優れたアンチテーゼとして引用される。マルクスが資本主義の最強の敵であると同時に、経済発展が人々に幸福をもたらすという資本主義的思想を共有していたように、科学技術への最も優れた懐疑者であるハイデガーもまた、科学技術の恩恵を科学者と共有している。

 「折角、天気が良いのだから、そんな屁理屈を捏ねていないで、外に出て運動でもした方がよい。」と周囲が忠告する。まだまだ人々は健全だと思って安心する。要するに、春のひとときを楽しめばよい。それが全てなのだ。


(H24/3/25記)


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