☆ 科学とロマン ☆


 皆既月食を観て感動した。科学の力を再認識する。勘のよい自然界の動物たちも、前の日辺りからは月食を予感しているかもしれない。だが1年も前から皆既月食の日時、それも分単位まで予測することができるのは人間に限られる。そして、それを可能にするのが科学だ。

 巨大産業、生活を快適にする様々な道具、そういう物の中に科学の力を見て取ることは容易い。しかし、私たちが科学の素晴らしさを実感するのは、人工衛星が送る地球の映像を観たり、予報通り月が欠けるのを眺めたりする時だ。科学の正当性は実験や観測で証明されると実証主義者は考える。生活や産業での威力がそれを証明するとプラグマティストは語る。しかし本当にそうだろうか。出来あがった科学を後から正当化するときには、実験や観測、産業や生活への応用が証拠として役立つ。実験や観測、産業が科学理論の妥当性を検証する有力かつ不可欠な道具であることも事実だ。だが科学へと人々を誘うのは、そのような論理的な理由ではない。そこにロマンがあるからだ。

 137億年前に宇宙は誕生したと物理学者は語る。46億年前に地球が誕生したと地球物理学者は語る。38億年前までには最初の生命が誕生し、5億4千2百万年前のカンブリア紀には、膨大な数の生物種が現れたと生物学者は報告する。さらには6550万年前の白亜紀の終わりには巨大な隕石が地球に衝突し、それが原因で恐竜が絶滅し哺乳類の台頭をもたらしたとされている。僅か100年も生きることができない人間が、文字を発明して知識を集積してきたからと言って、こんな遠い過去の出来事を語ることができるのだろうか。

 疑うことは幾らでもできる。いや、寧ろ、疑う方が自然ではないだろうか。事実、哲学者の中には、これらは物語に過ぎないと主張する者もいる。自然法則が永遠に変わらないという保証はない。場所によって法則が変わることだって考えられる。地球と太陽系で検証されただけの科学理論が、遥か過去、遥か未来、そして巨大な宇宙全体で時と場所に拘わらず成立するというのは随分と大胆な仮説だ。そもそも法則なるものが本当に存在するのか、ときたま法則で記述されるような現象が起きているだけではないか、こう疑うこともできる。

 それでも、私たちは、科学に魅了され、哲学者を始め多くの者たちの懐疑に耳を傾けることはない。批判に一理あると思ってもそれ以上深く追求する気にはならない。それは科学の合理性や実証性によるものではない。寧ろ科学が哲学よりも遥かにロマンに満ちていることが、科学への信頼と愛好に繋がっている。芸術家は、哲学ではなく、科学からインスピレーションを受け取る。

 日付が変わり皆既月食は終わった。月は美しく輝いている。星も引けを取らない。月の輝きが太陽の光を反射したものであること、星は太陽と同じ恒星で自らの核融合エネルギーで光を発していることを科学は教えてくれる。科学批判は哲学者の大切な仕事の一つだが、それでも、人々の心からロマンの光が消えない限り、科学が懐疑に打ち負かされることはない。


(H23/12/11記)


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