☆ 報道の力不足 ☆


 11月2日、福島第1原発2号機で臨界が起きたと報じられ衝撃が走ったが、翌3日には検出されたキセノンは臨界ではなく他の放射性物質の自発核分裂によるものだったと訂正された。取りあえず一安心なのだが、一連の報道各社の記事は明らかに説明不足だった。そもそも臨界と自発(自然)核分裂とどこがどう違うのかということすら、まともな解説がない。

 物理学では「臨界」という用語は相転移と関連付けられ「臨界現象」などという表現で多用されるが、原子力の世界では「臨界」とは核分裂が連鎖的に起きて放射線と核分裂生成物(例えば今回報じられたキセノン)が定常的に生成される状態を意味する。一方、「自発核分裂」は放射性元素に確率的に生起する核分裂が起きたことを意味する。しかし両者の差は定性的なものではなく定量的なものに過ぎない。自然核分裂を起こす放射性元素の密度が高くなると、自然核分裂が生み出した放射線が他の放射性元素の核分裂を誘発するようになる。このとき対象の物理系は臨界又は(核分裂の発生割合が時間とともに増大するときには)超臨界に達したと判定される。しかしながら、自然界でも、自然核分裂による放射線が他の放射性元素の核分裂を誘発することがあり、素粒子論的な時間(たとえばマイクロ秒単位)で観測すれば臨界的(又は超臨界的)な現象は絶えず生じている。原子炉内のようにウランが濃縮されている環境では、運転停止していても、ウラン原子の核分裂による放射線が他のウラン原子の核分裂を誘発するという事態は常に発生している。つまり自然核分裂と臨界に明確な境界線はなく、両者の境界は人為的なものでしかない。

 それゆえ、検出されたキセノンがウランの臨界によるものではなく、他の放射性元素の自然核分裂によるものだったとする東電の発表には疑問が残る。なぜなら、臨界ではないとする根拠がキセノンの存在量の少なさだからだ。臨界の基準を低めに定めればウラン原子の臨界でも検出されたキセノン生成量を説明できるはずだ。意地悪な見方をすれば、ただでさえ厳しい目に晒されている東電や保安院が世論の非難の高まりを回避するために、科学的な裏付けが不十分なままに臨界を否定できたと発表したと疑えなくもない。キセノンがウラン以外の放射性物質の自然核分裂の産物だったことを論証するにはより詳細な分析が必要だ。それも東電関係者だけではなく広く中立的な立場の学者や技術者など専門家の批判に耐えられるものでなくてはならない。

 東電に限らず私企業が自分たちに不利な事実を隠蔽し都合の良い事実ばかり公表しがちになるのは世の常だ。だからこそ行政の監督が必要になる。とは言え監督官庁が日頃から付き合いの深い業者に対して指導が甘くなるのもある程度は止むを得ない。業者の方が官僚よりも遥かに知識と経験が豊富で、官僚が疑問を持ってもそれ以上追及ができないということもある。だからこそ、市民を守るために報道の役割が重要になる。私企業や行政の発表を垂れ流すだけでは報道としての責務が果たせていない。

 専門家ではない報道記者が真実を見抜くことは容易ではなく、記事を書くために取りあえず企業や行政の発表を丸ごと引用することは止むを得ない。しかし第三者機関への確認を要求したり自ら専門家に当たってみたりすることはできたはずだ。ところが、そういう行動がなされたとは思えない。要は真実を探求する志しと、隠蔽されたものを抉り出す鋭い勘と行動力を有しているかどうかだ。この二つを欠けば報道記者は企業や官庁の宣伝手段に堕す。人間社会の真実は往々にして目に見えず耳に聞こえない。ただ微妙な雰囲気が漂うだけだ。そしてたとえ民主制国家でも、真実を求める者に対してそれを阻む壁は極めて高くて厚い。それゆえ報道記者には極めて高い志と資質が要求され、報道機関はそういう記者を育て守る義務がある。さもないとインターネットとモバイルが普及し一般市民が容易に情報を収集できる時代に報道不要論が高まり私企業の報道機関が経営難に陥ることは避けがたい。どんなにネットが普及しようと、人の世の常として真実が隠蔽されることが避けらない以上、報道の存在意義がなくなることは決してない。寧ろネットを通じてデマや嘘や誤報が大量に流布される時代こそ報道の役割はより重要になる。だが、今回の報道はその期待に応えるものではなかった。報道記者並びにそれを支える報道各社の奮起と研鑽を求めたい。


(H23/11/4記)


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