一時期マルクスが流行った。最近はニーチェの解説書をよく見る。二人とも歴史上燦然と輝く偉大な思想家だが、いまさら、二人に現代社会が抱える諸問題の解決策を求めても得られるものはない。 二人の解説書を紐解くと賛美の言葉が並んでいる。マルクスは金融バブルを予測していたとまで書く者がいる。しかしマルクスが資本論で語ったことは、信用制度が恐慌の原因になりえる、ということに過ぎず、そんなことは当時から経済学者の常識でありマルクスの手柄でも何でもない。未完成の地代論を引用してマルクスをエコロジストであるかのように語る者が少なくないが、マルクスは自然を改変することに積極的であり到底エコロジストとは言えない。実際マルクスの後継者であるソ連共産党は自然の大改造を図り失敗した。ニーチェはムッソリーニやヒットラーお気に入りの思想家で、ニーチェをファシストだと決めつけるのは公平ではないとは言え、ニーチェが平和主義者でも、民主主義者でも、人権擁護論者でもないことは確実だ。事実ニーチェは民主主義を嫌悪し、病人や貧者を助けることは悪だと公言する歪んだエリート主義者だった。 寧ろ、今、必要とされるのは、マルクスやニーチェの優れたところを再評価しつつも、その悪しき面を今一度徹底的に批判し、その上で彼らの思想の再生を図ることだろう。そのためには健全な批判精神と懐疑精神、そして洞察力が求められる。まず、マルクスはスターリニズムに象徴される忌まわしい独裁政治を生んだ。それはただ逸脱だ、マルクスはそんなものを望まなかったし、寧ろそういうものを厳しく批判していたと言って、マルクスを擁護することはできない。なぜなら、たとえ逸脱でも、マルクスの思想や行動の中にすでにその萌芽が存在していたと思われるからだ。さもなければ、マルクスを標榜する多くの国や組織で、忌まわしい独裁が生まれるはずがない。文化大革命を主導し無数の罪なき者に巨大な災厄をもたらした4人組、北朝鮮の金体制、スターリン死後も続いたソ連・東欧の独裁政治、本当のマルクスはこんなものではないと主張しても言い訳にもならない。さらにマルクスの資本主義分析には多くの難点がある。これまでも幾度か論じたとおり労働価値説には無理がある。そのため資本論の体系は論理としては完璧だが、現実分析にはそのままでは役立たない。マルクスを今に活かすには、その批判的な解体を経た再生が必要となる。ニーチェは個々の箴言が読者を魅了し、哲学専門家に多くのインスピレーションを与えることは事実だが、基本的に彼の哲学思想は、独裁的・反民主的であり、選良主義であり、現代には相応しくない。ニーチェの言葉を引用することは時には有益だが、必要以上にコミットするべきではない。 首相が毎年のように変わる。政治家や政党に主要な責任があることは事実だが、メディアや一般市民が健全な懐疑精神と批判精神を失っていることもその要因の一つに思える。小泉元首相の実体のない「改革論」、民主党のマニュフェストという名の大風呂敷、政権交代への過大な期待(この点は筆者も他人を批判できない)、いずれも、健全な批判精神と懐疑精神を働かせ、内容を精査していれば、それが空疎なものであることは分かったはずだ。インターネットとモバイルが普及した現代、情報を得ることは以前に比べて容易になった。だから、健全な批判精神が身に付いていれば、正しく事態を把握・評価することが容易になっている。その一方で、健全な批判精神と懐疑精神を喪失すれば、情報洪水の中で市民が群衆化し、投票を含めて場当たり的な行動が蔓延してしまう。マルクスやニーチェの解説書や原典に接することは良いことだが、読む際には、健全な批判精神と懐疑精神を働かせ、洞察力を養う題材として読んでいくよう心掛けたい。 了
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