☆ デジカメ ☆


 量販店で最新式のデジカメが目に映る。そろそろデジカメも買い替え時期か、そんな思いが脳裏を過り、今のデジカメを購入したのはいつかと気になった。早速自宅に戻ってパソコンに保存しておいたデジタル画像の撮影年月日を確認する。一番古い写真が2002年の7月と記されている。そうか、購入してから9年も経つのだと思うと何だがしんみりした気分になる。生来、さほど写真に興味を持っていなかったこともあり、最初のデジカメでそれなりに満足して今まで過ごしてきた。最新式ならばもっと綺麗に映るのだろうが、綺麗に映して保存したくなるほどの美女が家族や友人に居る訳でもないし、見事な庭園がある訳でもない。可愛い子猫や子犬や小鳥がいる訳でもない。ほどほどに映ってくれれば十分だ。9年も経つとバッテリーがへたって、充電するたびに時計の再設定が必要になる。面倒極まりないが、私の腕前にちょうど合う性能で、まだ十分使えると思うと買い替えるのが惜しくなる。それに9年も使うと愛着が湧いてくる。同じように9年近く使っている携帯電話もまだ買い替えの踏ん切りが付かないでいる。尤も携帯電話の方は来年の7月には周波数再編で使用できなくなるので、こちらは遅くとも来年の7月までには買い替える必要がある。そのときに合わせて、デジカメも買い替えるか、だが纏めて買うと出費が大きい。来年はボーナスがもらえるかどうかも分からない。凡庸な後期中年男でも、何かと悩みの種は尽きないものだ。

 9年間の写真は、しかし、月日の移り変わりを、時には美しく、時には残酷に映しだしている。9年前の両親はまだ70代、すでに老人の域に達していたが、それでも今と比べるとずっと若く元気があった。私自身が今よりずっと若く、結構イケ面だったではないかと思わず自惚れる(さすがにすぐに現実に戻り錯覚であることに気が付く)。デジタルの優れたところはノイズ耐性と保存性の良さで、デジタル写真の中では人は不死の存在になる。しかし却ってそれが人の世の儚さを感じさせる。人は不死ではない。写真は残っても人は消え去っていく。

 一方、楽しい思いもそこから生まれる。当時はまだ高校生だった甥や姪が、今ではすっかり立派な社会人になりバリバリ働いている。当時の写真に描き出された甥や姪は、まだまだ初々しく、見栄を張るようなポーズの一方で、どこか自信なさげな姿が可愛らしく、それが今の立派になった姿をより頼もしく感じさせる。近頃日本の政治と経済は最低だなどという嘆き声をよく耳にするが、写真に映る甥や姪の姿を眺めていると、そのような声は極端な悲観主義者や悲観的な評論で収入を得ている一部の言論人の戯言に過ぎないと確信できる。

 デジタルの功罪は相半ばする。それでもデジカメは間違いなく良いものだと思う。捏造が簡単にできる、著作権侵害が罷り通っているという非難の声もあるが、筆者のように不器用な者でも気楽に写真を撮影でき、保管場所にも事欠かない。劣化することもない。そこに描き出された人は永遠で、そのことは人の世の楽しさと悲しさを同時に感じさせるが、総じてこの感覚は心地よい。時には涙を催すことがあったにしても。

 デジカメを買い替えるかどうか、まだ悩んでいる。デジタル画像は永遠だと言ったが、デジカメを買い替えて、性能が変わるとこの永遠性が失われてしまうような気がしてならない。画素数が違えばファイルのサイズも変わり、より大きなハードディスクが必要になる。腕前が変わらないのだから、そこに映りだされる人や風景に変わりはないはずなのだが、それでもカメラの性能の違いで、はっきりと違いが生じてくるようにも思える。新しいカメラの方が今よりも綺麗に映せるだろう。それでも綺麗な方が良いとは限らない。白黒でノイズの多い昔の映画の方がCGを駆使して鮮やかな映像を提供する現代映画よりも優れていることが少なくない。ノイズや劣化、低品質が思わぬ効果を上げることもある。そう考えると益々今のデジカメを捨てることができなくなる。故障し修理ができなくなるまで買い控えるか、それとも新しいデジカメを購入して併用するか、今現在は、この二者択一に揺れ動いている。いずれにしろ、写真を見ながら選択に迷っている自分がここに居る。デジカメは携帯電話のように突然呼び出し音が鳴ることはない。パソコンに流れる不愉快なニュースを伝えることもない。だからデジカメと接している間は、自分の姿を客観視することができ、迷う自分の姿が何となく微笑ましくなり心を癒してくれる。やはりデジカメは素晴らしい発明だ。


(H23/8/13記)


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