勤めている会社には、60歳で定年、再雇用という制度があり、定年になった者の6割以上が再雇用の道を選択する。なぜそれまでして働くのか。 晩婚で60になってもまだ子どもが中学生などという者は楽隠居とはいかず、継続して働くという選択肢しかない。しかし再雇用される者の多くは、すでに子どもは独立し、夫婦二人の生活費が得られれば満足な生活ができる。再雇用後の年収は定年前の半分以下、今はまだ60から厚生年金が受給でき、企業年金と合わせると、贅沢を言わなければ夫婦二人でのんびりと暮らせる。しかも大抵は幾らかの貯金を持ち、働かなくても少しくらいならば贅沢もできる。職を辞すことで得られる生活の自由と平穏を、再雇用で得られる収入と比べてみると、どうしても再就職のメリットが見つからない。それでも多くの者が定年後も再雇用されて働いている。 日本人は働くことしか能がなく、人生の楽しみ方を知らないと皮肉られることがある。事実、その言葉が的中しているように見える者も少なくはない。しかし、ただ働くだけしか能がないから働くのだろうか。それは違う。大抵の者は、ゴルフ、旅行、釣り、囲碁など多くの趣味を持っている。特に女性で定年まで勤めた者は大抵たくさんの趣味を持っている。仕事を辞めても暇を潰すのに苦労することはない。それでも仕事を選ぶ。不思議なことだ。 日本人は仕事中毒と言うよりも、仕事と生活とが一体になっている。それが良いことか悪いことかは一概には言えない。ただ、定年後もお金に関わりなく仕事を続けようという意欲があることは誇ってもよい。少子高齢化で日本は危機に瀕しているが、それでも勤労意欲の高さが救いとなる。環境させ整えば、若年層の労働力不足を高齢層で補うことができる。 勤労と生活は古代より一体となって社会を織りなしてきた。それが近代に至り生産力が飛躍的に向上して初めて、労働と生活が切り離されるようになる。若いうちに稼ぎ、老後は好きなことをして暮らす、こういう発想が生まれ、それが自然の考えだと思われるようになったのはそう遠い昔のことではない。マルクスが、労働と資本を対極にあるものとして捉え、それぞれを担う労働者と資本家の雌雄を決する対決は避け難いと考えたのも、近代固有の思想と環境に基づくものと言ってよい。 明治維新以来、日本はひたすら西洋化を目指し、西洋の思想と技術、ライフスタイルを受け入れてきた。それでも日本社会にはまだまだ勤労と生活を一体化して考える習慣が根強く残っている。仕事の場は、労賃を得るためだけの場ではなく、憩いの場であり、家族の次に親しく大切な者たちが集う場所でもある。だから、人は金の高に関係なく再雇用の道を選ぶ。 そうは言っても日本も変わりつつある。競争至上主義、成果主義が広がり、地位による収入格差が大きくなっている。労働は仲間との協同作業ではなくなり、厳しい自己責任を負う苦役に変わりつつある。勤労と生活は分離し、成功した者は大きな富と名声、心身共に豊かな生活環境を得るが、成功しない者には厳しい風が吹き荒れる。 定年後も嬉々として働いている者が少なくないという日本の姿は、現実的にも、理念的にも好ましい。しかし、そういう日本の伝統が今や崩れつつあるとなると穏やかではない。歴史の歯車を逆回しにすることはできないが、私たちの考えや行動の変化が日本の良さを損なっているのではないかと思案することが大切になる。ただ時代に流されるのではなく、自らの考えや行動を客観化し、私たちが何を本当に望んでいるのかを良く考える必要がある。 了
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