40年前はウォシュレットなどなかった。20年前にはまだインターネットは普及していなかった。携帯電話を誰もが持つようになってからまだ10年も経たない。しかし、それらは生活にすっかり根付いた。 大量の電気を消費するウォシュレットの機能を停止したところ従業員の多くから非難の声が上がり半分のトイレで使えるようにした企業がある。ウォシュレットは気持ちが良いだけではなく衛生的だ。インターネットと携帯は災害時の情報収集と発信に大いに役立つ。携帯の地震速報は誤報も多いが危険を知らせる有効な手段であることを誰もが感じている。確かに、これらの道具は人々の生活を快適で安全なものにした。ところが、その一方で、逆に、これらの道具が使えなくなると直ちに生活が脅かされるようになる。 節電でウォシュレットが使えないと気分が悪くなる者、携帯とインターネットなしでは居られない者があちらこちらにいる。昔は携帯やインターネットがないと待ち合わせの場所が分からない、などということはなかった。お知らせに書かれた大雑把な地図を頼りに所定の場所に到達することができた。だが今やそれは難しくなった。今回の震災では、電力網だけではなく、通信網も大打撃を受け、携帯やインターネットが繋がりにくくなった。災害発生当時、被災地では電話、それも自宅や事務所の固定電話ではなく携帯電話の復旧を望む声が多く聞かれた。20年前に同じ規模の地震に襲われていたら、人々はどうなっていたのだろう。今回よりも遥かに悲惨な状況に陥っていただろうか。おそらく、そうではない。このような道具がないことを所与の前提として人々は行動していたからだ。便利なものがあれば、それを使う。そしてそれが当り前のように使えることが生活の前提になる。電気も通信も繋がらなくなることはないというのが暗黙の了解となる。しかし、事故は必ず起きる。電気が消え、通信ができなくなる可能性は常にある。その真実が、大災害で露わになる。 電力会社や通信会社の責任は大きい。そうは言っても、多くの欠陥がつとに指摘されていながら十分な対策を取らず大事故に至った福島第一原発の事故は論外だが、どれだけ投資をしても、どれだけこまめに点検をしても、事故確率をゼロにすることはできない。寧ろ、頻度は少なくとも、電気が消え、電話やインターネットが通じなくなることはある、特に大規模な自然災害が起きた場合には当然のことのようにそれが起きるということを前提に、備えをしておく必要がある。便利が不便にならないように。 了
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