☆ 真の偉人フレーゲ ☆


 日本では、現代論理学の始祖で、分析哲学の源流でもあるG.フレーゲの名を知る人は少ない。英米哲学の主流である分析哲学より、仏独を中心とする超越論哲学や実存主義、マルクス主義が圧倒的な影響力を持っている日本の言論界では、フレーゲの影が薄くなるのも致し方ないのかもしれない。だが、フレーゲの現代社会への貢献度は、19世紀後半から20世紀に活躍した他のどの哲学者よりも優っている。日本で大人気のウィトゲンシュタインやハイデガーよりも遥かに、私たちはフレーゲのお陰を蒙っている。しかし、それを知る人は少ない。

 理工系の学科に進んだ学生は必ず解析学の勉強をしなくてはならない。そこで、出会うのが理工系学生悩みの種「ε−δ論法」だ。
 「すべてのεに対して、δが存在して、これこれ」という解析学の証明の定番が「ε−δ論法」なのだが、これが実に分かりにくい。「ε−δ論法」を使った証明は厳密かつ明快であり、頭のよい学生にはこれ以上に分かりやすいものはないらしいのだが、頭が並み以下の筆者のような学生には、頭痛の原因以外の何者でもなかった。頭痛の発作を繰り返しているうちに、慣れたのか、なんとなく分かるようになったが、それまでは、「進路を間違えた」と何度も後悔したものだった。
 「ε−δ論法」はさらに洗練した記法で表現される。 「for ∀ε ∃δ ・・・」
 ここで、∀は「すべて」を意味して、∃は「存在する」を意味する。
 このように書き換えたからといって、分かりやすくなるわけではないが、計算と証明が極めて明快になる。20世紀における数学の画期的な進歩は、このような抽象的な記号を駆使することで可能となった。コンピュータもその延長線上に位置する。数学における抽象的な記号の導入と論理学の記号論理化は、現代文明に多大なる貢献をしたわけだ。

 ∀や∃のような記号群の創始者がフレーゲだ。フレーゲの著作(たとえば、「概念記法」)に記載されている記法は、現代の論理学や数学で使用されているものとは若干異なるが、基本的なアイデアは全く同じである。つまり、フレーゲの偉大な業績の延長線上に、諸学の基礎をなす現代数学と論理学、現代文明の象徴であるコンピュータは位置しているのだ。
 現代文明はコンピュータなしには成り立たないことを考えれば、解析学のお陰で仕事ができている理工系出身者だけではなく、すべての人間がフレーゲの恩恵を蒙っていることになる。なのに、誰もフレーゲに感謝する者はいない。理工系の学生ですら、フレーゲの名前を知らない者が圧倒的だ。どうしてなのだろう。

 フレーゲがコンピュータを発明したわけではない。現代数学も論理学もフレーゲ一人で作り上げたものではない。多くの天才たちがそこに関わっている。だから、フレーゲを取り立てて賞賛する必要はない。そう言われるかも知れない。
 だが、切っ掛けを作ったのはフレーゲだ。そして、最初の切っ掛けを作ること、手掛かりを見つけることが大変に重要なのだ。一度、道が見つかれば、そこを突き進んでいくことは比較的容易だ。最初に道を見つけること、それが難しいのだ。それをフレーゲは遣った。だから、フレーゲはもっと賞賛されてしかるべきなのだ。

 プラトンは哲学の問題を発見したが、解決はしなかった。だが、プラトンにより哲学という道が定められた。そして、プラトンは史上最大の哲学者として賞賛されている。フレーゲにも、現代論理学と数学、その応用であるコンピュータの創始者としての名誉が与えられてよい。いや、与えられるべきなのだ。なのに、ごく一部の人間を除いて誰もフレーゲを称えようとしない。

 どうも、本当に価値のある者が評価されていないように思えてならない。20世紀の偉大な哲学者と言うと、ハイデガー、ウィトゲンシュタイン、フッサールなどの名前が挙げられるが、彼らの行動と思想が社会に如何なる貢献をなしたのか。彼らは、「ハイデガー」、「ウィトゲンシュタイン」、「フッサール」という記号を残したに過ぎない。彼らの著作を理解している者などほとんどいない。そもそも理解する必要もない。何も明快なことは述べられていないのだから。

 フレーゲは正しい考えを正しく述べた。だから、私たちは、それを適当に加工して、気の利いた論文やエッセイを書いたりすることはできない。余りに真実なので、筆者のような頭の鈍い人間には応用不可能だ。
 だが、ウィトゲンシュタインやハイデガーを利用すれば、「現代人は、ハイデガーの表現を使用させてもらえば、常態的にダス・マンに転落しており、そこから抜け出す道を見出すことができないでいると言わなくてはならない。」、「ウィトゲンシュタイン流の表現を流用すれば、ここに見出されるのは家族的類似性だけだということになる。」などと、いい加減なことを幾らでも言うことができる。
 専門家から「その引用は不正確だ、解釈は誤りだ」と指摘されても、「私は文献学を遣っているのではない。ハイデガーとウィトゲンシュタインというテクストを現代という場において読解しているのだ」と言い返せば、幾らでも言い逃れができる。ウィトゲンシュタインもハイデガーも明快なことは何も述べていないから、こちらが素人で相手が専門家でも太刀打ちできる。相手が膨大な文献を引用してきても、「それが現代という場において如何なる可能性をもつか示さなければ、無意味だ」と言い返せば、自分の立場をどこまでも正当化できる。だから、ハイデガーやウィトゲンシュタインは人気者なのだ。そして、20世紀最大の哲学者という名声を得ている。

 このような傾向は哲学だけではない。他の学問にも見受けられる。いや、学問の世界だけではなく、他の世界でも同じように思える。人々は、本当に重要なものを顧みず、見掛けだけ立派なもの、権威者とされる者や人気者が賞賛しているものばかりに飛びつく。

 篤実な学者フレーゲが人々の賞賛を望んでいたとは思えないが、フレーゲがもっと評価されるようにならない限り、現代人の知的能力とその誠実性は、はなはだ疑わしいと言わなくてはならない。17世紀初頭、フランシス・ベーコンは、人々は4つの偏見に囚われ正しくものをみることができていないと警告した。400年経った今でも状況は余り変わっていないようだ。


(H15/10/22記)


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