両極端は一致するなどとよく言う。いつも必ず外れる天気予報はいつでも当たる天気予報に等しい。予報の反対を信じれば外れることがないからだ。いつも嘘を吐いている者は正直者と同じだ。その言葉の逆が常に信頼できるからだ。 とは言え、いつも外れる天気予報といつも当たる天気予報とは違う。嘘ばかり口にする者と正直者は違う。どうしてだろう。 人は、誰かが「A」と言えば、普通、取りあえず「A」と信じる。だからそれが事実と一致しているときには心が乱されることはない。常に嘘を吐くと分かっている者が「A」と言っても、人は取りあえず「A」の可能性を考慮する。その後、「あいつの言っていることだからAではない」と考え直す。だから、誤った判断をすることはないが、心がかき乱される。人にとって、両極は論理的には等価でも感覚的には全く異なる。 このことから、人の日頃の行動を支配しているのは知的推論能力や規則運用能力ではなく、感覚的、直観的な判断であることが分かる。このことはありふれた日常生活だけではなく、学問的な研究でも変わることはない。「何かある」この感覚が真実へと研究者を導く。その推論過程は後から見直すと間違いだらけの場合が多いが、それでも発見者、発明家たちは、真理を、画期的な発明を生み出す。将棋や囲碁の騎士でも直観や感覚が極めて重要な武器になる。近年はコンピュータ将棋が飛躍的に強くなりプロ並みになった。10年後には最強の棋士、例えば羽生名人や渡辺竜王を凌ぐと予想されている。しかし、それでも処理速度では如何なる天才よりも格段に高速なコンピュータと、将棋や囲碁のような純粋に知的なゲームで、人が互角に戦えるという現実は、人の頭脳が推論や規則ではなく、感覚的、直観的な判断力で特徴づけられることを示唆している。 コンピュータやコンピュータ制御のロボットの技術進歩は目覚ましい。それでも多くの分野で人には及ばない。その理由は能力の質に差があるからだ。とは言え推論能力を磨いていけば、どこかで感覚的判断に頼る人間を凌ぐ時が来る。だが、たとえあらゆる分野でコンピュータが人を凌ぐ時(小説や音楽もコンピュータが制作するような日)が来たとしても、人とコンピュータが完全に同一化することはない。そして、コンピュータが人を支配することもない。なぜなら「支配」という観念は、ただ感覚的、直観的な判断においてのみ意味を持つからだ。感覚や直観と無縁なコンピュータには「支配」は意味をなさない。だからコンピュータが人を支配することはない。「支配」するのは常に感覚と直観そして感情の動物である人間なのだ。 コンピュータに人間が支配される日は来ないということは私たちを安心させる。だが用心が必要だ。コンピュータプログラムに「支配」を遂行するアルゴリズムを忍び込ますことは簡単だからだ。そして、そのような邪悪な試みを促すのは、人間の本質である感覚的、直観的な判断力だ。コンピュータが人を支配することはないが、コンピュータを使って人が人を支配することは常にありえる。しかもネットを使ってその可能性は強まっている。今やクールな知的推論能力を磨くことが不可欠な時代に差し掛かっているのかもしれない。 了
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