☆ 霊魂の気持ち ☆


 昔の人は、肉体とは別の霊魂が存在すると信じていた。西洋哲学の源流であるソクラテスやプラトンも、盛んに霊魂の存在に言及し、霊魂の浄化こそが何より大切だと説いている。現代人は肉体を離れた霊魂の存在を信じる者は少ないが、それでもそういう存在がないとは言い切れない。では、肉体を離れた霊魂が存在したら、どんな感じがするだろう。

 肉体がないのだから痛みや痒みは感じない。頭が重いなどということもない。空腹を感じることも、性欲を感じることも、息苦しいと感じることもない。こうして取り上げてみると、私たちの心が実に多くの肉体的な状態を反映していることに気が付く。それゆえ、肉体から離れた霊魂は、普段の私たちの心の多くの特性を喪失したものとなるに違いない。

 目や耳など感覚器官から分離した霊魂は、物を見ること、音を聞くこと、匂いを嗅ぐこと、味覚を感じることができない。手足がないから物の形状や圧力を知る手立てもない。肉体がなければ上下左右前後の区別すら難しくなる。こうして肉体から去った霊魂は肉体の直接的な状態だけではなく、周囲の環境に関する情報も得られなくなる。

 では肉体から去った霊魂はどのような気分なのだろう。おそらく数学世界に暮らしているような感じだと思われる。明快な論理が支配する数学的な空間、それが霊魂の住まう場所に違いない。目や耳、手足がないから、直接、図形やグラフや数式を見たり書いたりすることはできないが、肉体と共存していた時の体験でそれらを想起することはできると思われる。ここで、数学を考える頭脳という器官がないから、目がないと物を見ることができないのと同じように、数学を考えることができないのではないかという疑問が生じるかもしれない。しかし、「考える」という現象は、単純な「見る」、「聞く」、「圧力を感じる」などと違い高度な精神活動であり、脳細胞の働きだけでは理解することは出来ず、肉体から離れた霊魂が存在するのであれば、「考えること」は肉体ではなく霊魂の働きだと理解される。それゆえ、この疑問には意味がないことが分かる。

 だが数学だけで尽きる訳ではない。肉体がなくても失われないものを想像してみよう。「記憶」がそれだ。記憶も「思考(考えること)」と同様に霊魂の働きだと推定されるから、肉体を離れても消えることはない。寧ろ、記憶にとって肉体はしばしば(例えば深酒をするなどの行為により)記憶を喪失させるという悪さをするから、肉体から離れることにより記憶が失われることはなくなると言ってもよい。熱力学の第2法則は孤立系では情報の喪失が避けられないことを教えているが、第2法則が成立するのは肉体だけで霊魂には及ばないから、記憶(=情報)の喪失は生じないと考えてよい。

 こうして、肉体から離れた霊魂は、記憶と数学的思索の世界に生きていることが分かる。しかし、これだけでは余りにも寂しい気がする。他にはないのだろうか。おそらく、家族や友人、恩師、広く人間社会全般への関心や愛情が霊魂になっても生き続けると想像される。こういう関心や愛情があって初めて記憶が意味をなす。一方、悪しき感情も残るのではないかと思われるかもしれないが、悪しき感情のほとんどは肉体的な欲求に基づくから肉体から離れれば無くなると推測される。ただ記憶の中に悪しき感情の痕跡が残っており、それが悪さをする可能性はある。ソクラテスが霊魂の浄化を重視し、罰せられる悪人の方が罰せられない悪人よりも幸福だと説いた理由がここにある。

 一つ、判断しかねる問題がある。肉体から離れた霊魂が、「「私」は他人とは違うこの世でただ一人の「私」だ」という気持ち(自己同一性+唯一無二性)を持ち続けるかどうかという問題だ。霊魂になっても私は他人とは違う私だという気持ちは残ると考える者がいるだろう。そもそも生身の人間が「私」という感覚を有しているのは、「思考」と「記憶」と同様に霊魂の働きだと考えることもできる。だとしたら当然「この世でただ一人の私」という気持ちは残る。しかし、その一方で、他人とは違う肉体を有していたからこそ、他人とは違う「私」という意識を有することになったのであり、それは霊魂特有の働きではない。寧ろ、痛い、痒いなどの感覚と同様の存在に過ぎないと考えることもできる。だとすると霊魂になると「私」という感覚は消え去ることになる(但し、その場合でも、思考と記憶の対象として(抽象的な概念としての)「私」は存在し続けるだろう。ただ、そこでの「私」は「1」などと同様の純粋な論理的対象になり、生身の人間にとって最も重要な他人とは違いただ一度限りの生を生きる者という実存的な意味(単独者としての「私」)は消滅することになる。果たして、答えはどちらだろう。肉体から離れた霊魂になったことがないので分からない。ただ、私の憶測では、後者が正しい、つまり単に個別性を識別する記号としてのみ機能する「私」だけが残るような気がする。

 さて、こういう霊魂は幸福なのだろうか。それは何とも言えない。多くの宗教では、幼子のような純真な者こそが神意に適うとされるが、事実、穢れを知らず幼くしてこの世を去った者の霊魂は平穏で至福の世界で遊ぶことになると思われる。数学は楽しいパズルで、微かに残る人の温もりは(たとえ現生で不幸な死を遂げた幼児ですら、邪心がないが故に)心地よいものとして残り常に平穏と幸福の徴として作用する。さて、その一方で、世俗と穢れに塗れた身にとって霊魂の世界は如何なるものだろうか。記憶と思考が決め手となるとしたら、悪事をなすことなく誠実で勤勉に日々感謝の気持ちを持って暮らすことが賢明だということになる。現代人は肉体を離れた霊魂などないと考えている。確かにそれは正しいかもしれない。だが霊魂の存在を考えることで、善い生き方ができるようにも思える。一度、肉体を離れた霊魂になったつもりで、自らの生き方を反省するとよいのではないだろうか。実際、正しいかどうかは別だが、20世紀を代表する政治哲学者ロールズは、無知のベールに覆われた霊魂を想定して正義論を展開している。


(H22/9/26記)


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