☆ 哲学の何が面白いのか ☆


 ハイデガーの「哲学への寄与」を購入し紐解くと、「哲学など読んで何か役に立つのか」と知人が尋ねる。「村上春樹を読んで何か役に立つのか」と反論したいところだが、村上春樹ならば周囲との会話が弾み人間関係を良好にするが、ハイデガーでは人間関係を疎遠にするだけで何の役にも立たない。

 哲学書を読んでいると変人かインテリぶった気取り屋だと思われる。変人ではないつもりだが、確かに若い頃は哲学書を小脇に抱えて進歩派知識人を気取っていたことはある。正直言えば、今でも、哲学書を読んでいると高尚な人物だと誤解してくれるのではないかと心密かに期待している自分に気が付くことがある。だが、そういうことは今では哲学に向う大きな動機づけにはならなくなった。何故哲学書を読むのかと聞かれたら簡単に答えることができる。「面白いから」と。

 そうは言っても、ハイデガーの「哲学の寄与」のどこが面白いのかと尋ねられると答えに窮する。村上春樹ならば「だって、面白いではないか」で済ませてしまうことができるが、哲学書ではこういう答えは許してもらえない。理路整然と答えないと尋ねた者は納得しない。村上春樹は多くの者が面白いと感じているが哲学書はその逆だから理由が必要になる。刑事が被疑者に尋問するのに理由は要らないが、被疑者が刑事を尋問したら理由が問われるのと同じだと言ってよい。その癖、理路整然と答えると怪訝な顔をされた揚句、それ以後敬遠されることになるのだから困った話しだ。哲人は隠れて暮らすと言われるが、隠れていないと暮らしていけないというのが本当のところなのだろう。

 だが私にとって哲学は理屈抜きに面白い。この「哲学の寄与」は創文社のハイデガー全集の一冊なのだが、この全集では、一貫して「SEIN」を「有」と訳している。ハイデガーを手にしたことがある者は誰でも知っていることだが、「SEIN」は普通「存在」と訳す。「存在と時間」という題名を耳にしたことがある者は多いだろうが、「有と時間」という題名を聞いた、あるいは、見た者はこのハイデガー全集を手に取った者か、全集の翻訳者など関係者だけだろう。なぜ「存在」ではなく「有」なのか。「存在」と「有」とどちらがハイデガーの「SEIN」に近いのか。読みながら、こういう疑問をあれこれと詮索することがとても楽しい。また、有(存在)と真理の関係について、書斎に籠って深遠な思想を展開している気になっているハイデガーを想像すると、どこか滑稽さを感じて、思わず読みながら噴き出してしまうことすらある。ウィトゲンシュタインは生前「全編ジョークからなる哲学書を書きたい」と言ったそうだが、哲学書とはそもそもジョーク集、優れた哲学書は最良のジョーク集なのではないだろうか。

 こんな説明をしても誰も納得してくれない。だが何が面白いかは人によって違う。そんなことは言われなくても分かっていると誰もが口にする。ところが現実はそうなっていない。多くの者は無意識のうちに自分の趣味や思想信条を他の者も共有していると信じ込み、見解を異なる者には自分の考えを押し付けようとする。哲学書を楽しく感じる者は少ない。だがそういう少数者が存在するという事実が、人によって面白いと感じるものが違うという当り前のことを人々に思い出させる。案外、哲学の存在意義はこんなところにあるのではないだろうか。尤も哲学の存在意義と言うよりも哲学愛好家の存在意義と言うべきかもしれないが。


(H22/7/29記)


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