相撲界が野球賭博問題で大騒ぎになり、名古屋場所は予定通り開催されることになったが、多くの者が処分され相撲界の名誉は傷つけられた。ギャンブルで身を滅ぼす者は後を絶たないが、それでもギャンブルを全面的に禁止しようという声はない。 誰もがギャンブルが大好きという訳ではないが日本人でパチンコと競馬のいずれも遣ったことがないという者はそう多くはあるまい。宝くじとなれば尚更だ。現代の若者の社交場とも言うべきゲームセンターも一寸した賭博場と言えなくもない。そして日本人だけではなく世界中の者がギャンブルを好む。いったいギャンブルの何が人を魅了するのだろう。 一攫千金?それもあるだろう。しかしそれは二次的なものに過ぎない。結果ではなく過程が大切なのだ。 人は未来が分からない。だから占いはいつの時代も廃れることはない。一方で、支配することができない未来を支配しようとする試みがある。それがギャンブルだ。不可能を可能にしようという試みは人間の本質に属する。だからギャンブルという企ては人を魅了し、少々の失敗では懲りることなく誰もが再挑戦する。 もう一つ理由がある。人は誰でも自分を守ろうとする。だが同時に理由は定かではないが、人には破滅への意志とでも言うべき性質がある。悲劇は成功者の物語よりも遥かに強く人々の心を揺り動かす。そして自分を悲劇の主人公へと重ね合わせる。 未来を支配しようとする意志、破滅への意志、この二つを満たすのがギャンブルだ。前者の意志は無意味で、後者の意志は無謀だ。しかし、いずれの意志も強力で、ギャンブルという遊びがなければ、人は戦争や殺し合いでこの二つの意志を解き放とうとするだろう。だが、それでは本当に破滅する。ギャンブルで身を持ち崩す者がいても改心すれば社会に復帰できる。ギャンブルは社会を平和に保つために欠かせない。 ある意味で、資本主義は、あからさまにギャンブルを経済活動に組み込んだシステムだと見ることが出来る。だからこそ生産力はそのシステムの下で飛躍的に拡大した。だが、もし経済活動が全面的にギャンブルにとって代わったらどうなるだろう。おそらく世界は破滅する。ギャンブルはあくまでも遊びの世界に留めておくべきものなのだ。 了
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