☆ 正義とは何か ☆


 「正義」を語る者は胡散臭いと感じる日本人は多い。確かに東洋的伝統においては西洋的な「正義」(Justice)は違和感がある。西洋にもスピノザやヘーゲルのように、真偽、善悪、美醜を表裏一体のものとして捉える思想がある。善と正義は異なるものとされるが、善悪を表裏一体のものとして捉えるのであれば、正義と不正(不義)も一体のものとして捉えることになる。しかしスピノザやヘーゲルは正義が不正(不義)を統合・支配するところに真の正義があると主張しているのであり、正義への信頼が揺らぐことはない。それに対して東洋においては全てが自然のままに存在し、正義・不正(不義)は人の約束事に過ぎないという感覚が強い。日本や中国では死刑制度を支持する者が多いが、正義への強い思いが死刑を支持させると言うよりも、「死刑=正義に反する刑罰」対「死刑以外の刑=正義に適う刑罰」という西洋的な二項対立が希薄だからだと思われる。それゆえ多くの日本人にとって大上段に正義を語る者は傲慢、狂信的と映る。筆者は死刑廃止を支持する者だが、それでも死刑制度が存続する日本や中国を野蛮だと非難する欧米の人権団体には反感を禁じえない。

 そうは言っても、法の支配が広く認められている現代社会において、「正義」という概念が重要であることは否定できない。サンデル教授の「これからの「正義」の話をしよう:いまを生き延びるための哲学」(早川書房)が広く読まれていることからも、日本人にも「正義とは何か」という問題に関心を持つ者が少なくないことが分かる。財政赤字が深刻化し、格差拡大が問題となり、政治家など権力者の不正が一向になくならない現在、日本人にとっても正義について考えることが避けられない状況になっている証しだろう。

 だが「正義」の探究は容易ではない。法、正義、善、一見似通っているが実際は異なっている。悪法も法なりで、悪法でも違反すれば罰せられる。しかし罰せられることを覚悟で法と闘うことが正義とされることは少なくない。たとえば独裁者への絶対服従を命令する法に抵抗する者が正義として支持されることは当然ありえる。善と正義も必ずしも合致しない。「最大多数の最大幸福」を標榜する功利主義は、善と正義を混同しているとしばしば批判される。多くの者の生活を改善するからと言って、政策が正当化されるとは限らない。たとえば大規模な公共事業が経済活性化に役立ち政策への支持率が高いとしても、自然環境、社会的公正、伝統文化などの観点から正義に適っていないということがありえる。

 正義、善、法との関係をまず整理し、「正義」の定義を決めてから、正義について論じるという訳にはいかない。正義の定義を議論する過程で、正義と善、正義と法の関係について超えることができない対立が生じるからだ。正義を個人の行動基準と捉えるか、それとも社会体制設計又は評価の基準として捉えるかという点でも議論が分かれる。どちらかに決めて議論することは可能だが、議論の過程でどうしても捨象された側の立場が論点として浮上してきてしまう。社会体制の基準と個人の基準の軋轢が生じ、両者の関係をどのように整理すればよいのかという問題が避けて通れない。そして、個人と社会の関係において、法と正義の違いが顕著になる。

 5人の命を助けるために1人の人間を殺すことは許されるかという議論がある。これは功利主義を批判するときによく使われる議論だが、誰もを納得させる答えを見つけることは難しい。普通こんな極端な状況は生じないということで問題を回避することはできる。消防士が、100人を助けるか、50人を助けるか、どちらか一つしかない方法がないときに100人を助ける道を選択することは当然支持される。こういう事例では功利主義は行動の選択基準として意義がある。しかも功利主義の思想には民主制度という背景がある。独裁社会では支配者の利益が何よりも優先するから功利主義的な発想は生まれようもない。その点でも功利主義は現代的な正義論として一定の意義がある。だが、こんな事例を考えると困難が生じる。二人の患者がいる。一人は心臓移植すれば助かる。もう一人は助かる見込みはない。ところが移植する心臓が入手できず心臓移植を待つ患者の生命は風前の灯になっている。もう一人の不治の病の患者は助かる見込みはないが、まだ1年くらいは生きられる。ここで不治の病の患者が自分の心臓を提供することを申し出たとしたら、医師はどうするべきだろう。まだ意識もしっかりしており、心臓も力強く動いている。その患者から心臓を摘出して移植することなど出来るはずがない。だが移植をしないと、移植を待つ患者は死ぬ。そして1年後には不治の病の患者も死ぬ。最大多数の最大幸福という観点からすれば、不治の病を患う者の提案を受け入れ、手術をした方が幸福量は増大する。それでも私たちの道徳は、不治の病とは言え今は元気な者の命を奪うことには強い嫌悪を感じる。事実、心臓の摘出を行う医師はいない。心臓を摘出し移植しても成功しなかったらどうなるのだろうか。さらに成功したとしても、移植を受けた者やその家族は本当に幸福になれるのか、自らが望んだのではないとしても、他人を殺して得た心臓で生きることは正義感の強い者には耐えがたい。もしかしたら、その者は自殺するかもしれない。そうなると事態は最悪となり、最大多数の最大幸福を目指して、最大多数の最大不幸を招くことになる。

 結局のところ、人は未来を予測することができず、全ての事情を考慮に入れることもできない。それゆえ、どのような正義論を展開しても完全な理論はできない。正義や善に関するどのような理論も、全ての人々を納得させることができない所以だ。それは先に挙げた著作のサンデル教授の共同体主義的正義論についても変わるところはない。

 これは正義を語ることの不毛を示唆し、東洋的な知恵とそれに基づく「正義」を振りかざす者への違和感を支持する。だが、それでも「正義とは何か」という問いを回避することはできない。正義が定義不可能でも、「正義などない」で済ませていたら、社会を改革しようという機運は生まれない。不可能を追い求めることが社会の発展と改善に欠かせないということもある。答えのない問いを問い続けることは苦しいが、それでも問い続けなくてはならないこともある。正義はその典型的な問題と言ってもよい。そのことを肝に銘じておきたい。


(H22/6/21記)


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