☆ 理性の限界?私の限界? ☆


 計算をしていて閃いた。
@2+2=4
A2×2=4
普通の数学では@の4もAの4も変わらない。@の4でも4+2=6、Aの4でも4+2=6、どちらも+2の答えは6になる。しかし、過去を記憶している数字があったとしたらどうだろう。直前の演算が足し算のとき、次の演算が足し算だったら掛け算に置き換わり、直前の演算が掛け算だったら、次の演算が足し算の場合はそのまま足し算になる。こういう数字があるとすると、
@の4では、4+2=8となり、
Aの4では、4+2=6となる。
つまり過去の演算結果で次の演算の結果が異なってくる。

 この私が発見した数学体系では演算の履歴が数字に残っており、過去の演算を知らない限り、次の演算の答えを導出することはできない。「素晴らしい発見だ!」私は思わず小躍りした。人間の思考や行動は、常に過去の経験に影響される。これまでの数学は思考の特徴を表現することに失敗しており、それゆえ様々なパラドックスに悩まされ、また多くの者が数学嫌いになった。一方、私のネオ数学は過去の経験に依存して答えが異なる人間理性の本質を完璧に表現している。正に数学の大革命だ。フィールズ賞10個以上の価値がある。後世の者たちは、ネオ数学の創始者として、私のことをアルキメデスやニュートンに優るとも劣らない大数学者として褒め称えることになる。そして私のこの偉大なるネオ数学を応用することで、人間理性の謎は解明され、人間と同等あるいはそれを遥かに超える人工知能が発明され社会は一変する。世界から戦争が一掃され、人々は労働を人工知能制御のロボットにすべて任せ、長く創造的で健康的な生涯を送ることになる。

 ところが、意気揚々として、この大発見を話したら、友人はせせら笑う。そんな考えは珍しくもなんともない。コンピュータサイエンスや論理学では、こういう特殊な演算が遥か以前から色々と考案されており、私の考えなど及びも付かない精緻なものが多数存在すると言う。さらに落胆した私に友人は畳み掛ける。「@の2+2の最初の2が、1+1=2による場合と、1×2=2による場合で、@の計算は二通りに分かれる。二番目の2でも二通りに分かれるから全部で四通りになる。それぞれの場合で@の計算結果は異なる。つまり@の答えは4とは限らない。さらに、それぞれの式に現れる数字に先立つ演算を考えることができるから限りがない。それゆえ君の数学は不完全で無意味だ。」と。

 こうして史上空前の大発見はあっけなく水泡に帰した。思いっきり凹んだ私は公園のベンチに腰掛け、茫然として空を仰いでいたが、そのとき気が付いた。最初の演算を決めておけば友人の反論は成立しない。つまり、こういう具合だ。
@S「2+2」
AS「2×2」
ここで記号Sは演算の開始を意味する。つまり、冒頭にSがあり「」で挟まれた演算式では、「」で挟まれた数を分解することは許されないと定義する。そうすれば友人の演算履歴を遡及することによる反論を否定することができる。

 再び気分が高揚した私は友人のところに行き口角泡を飛ばして反論した。その後の二人の議論は良く覚えていない。いや正直思い出したくない。私は意気消沈して肩を落とし足取り重くとぼとぼと帰宅の途についた。そして史上稀に見る革命的発見など滅多なことでは訪れないと思い知らされた。別れ際に「悪くないアイデアだったよ」とがっかりしている私に友人は慰めの言葉を掛けてくれた。だが却って惨めになっただけだった。仕方なく、人間の理性など大したものではないと自分の心に言い聞かせた。人間の理性が大したものではないのではなく、ただ単に私が大した者ではないだけだと薄々感じながら。


(H22/4/15記)


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