☆ 地の底=知の底 ☆


 27日、大地震がチリを見舞った。今年に入り、ハイチに続いて地震が人々を襲っている。日本でも同日未明に震度5弱の地震が沖縄で発生している。地震は予測が出来ず本当に恐ろしい。

 地震が多い日本ではずっと以前から地震予知の研究が続けられている。直前には地震波の伝搬を予測し警報を発出することもできるようになったが震源地では避難する余裕はない。依然として人類は地震を予知することができず常にその巨大な脅威に晒されている。昨年は中国内陸部に大地震が発生しており、日本でも関東大震災クラスの地震がいつ起きても不思議ではない。

 これだけ頻繁に大地震が起きれば、データも揃い、小さな地震は無理だとしても大地震なら事前に予測出来ても良いだろうにと思うが、そうは問屋が卸さない。地の底は理論的に大体の構造は理解されているが、具体的にどのような動きが起きており、いつ大地震に繋がるかを予測することはできない。宇宙が137億年前にビックバンから生まれ、地球が約46億年前に誕生し、太陽が50億年後には白色矮星としてその寿命を終えるなどということまで分かっていながら、自分たちの足元は全く分かっていない。それは成人病が本人の知らない間に進行しているのとよく似ている。検査技術と予防医学の進歩は目覚ましいが、明日の我が身は誰も予測できない。突然地震に襲われ、突然心臓病に襲われる、誰もがそういう危険と背中合わせで暮らしている。

 人間の知的能力は外に向かっては強いが内には弱い。それは数学を使って人間が世界を認識するということと関連している。数学は、測量や商業など現実的な課題解決から誕生したが、今では高度に抽象化した世界で理論を展開している。ごく初歩的な幾何学でも、大きさのない点、太さのない線、厚みのない面など現実にはありえない存在を出発点にして議論が進められる。高度な数学では無限、無限次元、位相、多様体など現実から遠く離れた世界で体系が構築される。プラトンのイデアのような一見突飛な哲学が生まれるのも、数学を使って世界を認識するという人間知性の本質に基づく。そして、このことに人間の強さと弱さが現れる。

 「人間は考える葦である」パスカルの例えは人間存在を適切に表現している。葦は自分を支える大地が揺らぐと水に流され死んでしまう。考える葦は天上を眺め天の運行やそれを支配する法則を、数学を駆使して理解することができるが、自分を支える地面を知ることができない。地面の動きを知るには抽象的な数学世界だけでは不十分で、鋭敏な感覚が不可欠となるが、数学的知性に長ける半面、人間はこういう原始的な能力に乏しい。それ故、地の底は暗黒の知の底となり、私たちは常に地震という計り知れない脅威に苛まれる。

 しかし、人間には数学的知しかないという訳ではない。目を瞑って手を挙げると、手が見えている訳ではないのに、自分の手が挙がっていることが分かる。ウィトゲンシュタインの後継者たちが「観察に寄らない知識」と呼ぶ類の能力が人間にも備わっている。ここに数学的な知を超えて、現実世界をより深く認識する手掛かりがあるように思われる。

 それは決して超能力のような不可解な力に頼ろうとすることではない。科学の方法を拡大することが地震や健康を知るために不可欠だと言っているのだ。「要素に分解せず複雑なものを複雑なままで認識する」という標語の下で複雑系と呼ばれる科学分野が発達した。ところが複雑系は、結局のところ、力学系や位相数学、ネットワークなど伝統的な数学に頼って理論が構築されている。その結果、還元主義を超えると称しながら、還元主義に回収され、大きな成果を挙げるに至っていない。やはり、もっと抜本的な知の改革が不可欠なのだと思う。それは神秘のベールに覆われている知の底=地の底を覗きこむことを意味する。果たしてそれが可能なのか、あるいは可能だとしてそれを遂行することが善いことなのかは分からない。だがおそらくいつか私たちはそういう試みをなすことになると予想する。


(H22/2/28記)


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