誰かが「記憶は人間に与えられた最大の呪いだ」と言ったそうだ。この言葉が的を射ているかどうかは別にして、記憶が厄介なものであるには違いない。 忘れたいことがどうしても忘れられない。あれこれ悩んでも仕方ないことが分かっているのに頭から離れない。その一方で、大切な鍵や資料をどこにしまったか忘れ、探し回る羽目に陥る。どうして、こうも記憶は扱いにくいのだろう。 記憶は頭の中にあると信じられている。だがこれは疑わしいと思う。頭の中にあるのであれば、もっと自由に制御し、嫌なことは速やかに忘れ、大切なことは絶対に忘れないようにできるはずだ。試験前日に徹夜で勉強したことを1日も経たないのに忘れてしまい、一体何のために勉強したのかと臍をかむことが珍しくないが、勉強という極めて主体的、強制的な操作をしても忘れては困ることを忘れてしまう。頭の中に記憶があるならば、このようなことは起きない。だって、そうだろう。脳は小さい。いくら人間が出来の悪い動物だとは言え、この小さい空間に納められた記憶くらいは自由自在に制御できるはずだ。大脳皮質の皺は深く密になっている、だから脳の表面積は人が想像するよりも遥かに広い。だから、そこに蓄えられた記憶が簡単には制御できなくても何ら不思議なことではないという意見がある。しかし納得いかない。私たちの思考だって、同じ大脳皮質で行われるのだから、同じ場所に納められた記憶を自由に制御できてもよいはずだ。進化論的にも、仕事や失恋など不幸な出来事を忘れられないということは明らかに健康に悪い。だから遥か昔にこのような不出来な動物は自然淘汰され地上から消滅していてもおかしくない。それなのに人類は地球の生態系を危機に陥れるほどに繁殖している。これは明らかに矛盾だ。 実際は、記憶は脳の中にはないに違いない。本当の記憶は外部に存在し、脳にはその外部に存在する記憶にアクセスする方法だけが書き込まれている。例えて言えば、パスワードを書き込んだ紙をしまった場所は覚えているが、パスワードは覚えていないという訳だ。こう考えると辻褄が合う。パスワードを書いた大切な紙をしまった書棚から誰かが他の資料と一緒に紙を持ち出し、パスワードが分からなくなる。こうして肝心なことが思いだせなくなる。一方、嫌な出来事は世界の至る所に書き込まれており、忘れることができない。 こんなことを言っても賛同してもらえないことは予想が付く。「目を閉じ、耳を塞ぎ、独り静かに椅子に座り、様々な記憶を脳裏に思い浮かべる。それは過去のエピソードだけではなく、方程式の解法や小説の粗筋なども含まれる。それが脳以外のどこにあると言うのか。」こんな具合に反論される。 それでも記憶が専ら脳に格納されているとはどうしても信じられない。それは、記憶が思うように制御できないからだけではない。幸福な気分に浸ろうとして、目を閉じ憧れの君の顔を思い浮かべようとするがうまくいかない、ところがその女性が勤める店の傍まで行くと急にその花の顔が鮮明に蘇る。こういう経験を私は幾度となく繰り返した。専ら脳に記憶があるのであればこういうことは考えられない。記憶は脳に偏在しているのではなく、世界に遍在しているに違いない。尤も、それも不思議な話しだ。もしかすると「世界」とは「私」のことなのかもしれない。 了
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