☆ 哲学はどう読めばよいのか ☆


 哲学が好きならば大学か大学院で本格的に勉強したらどうだと言われる。しかし入学できたとしても行く気にならない。そもそも試験に合格できないから入学できない。

 哲学を専門とするには原書を読むことが不可欠とされる。翻訳書を読んだだけでは、哲学科で論文を書くことは覚束ない。原書を読み、その国の言葉で論文を書くことが要求される。語学が全く駄目な(実は他の学科も駄目なのだが)私には不可能だ。英語だってろくにできないのに、ドイツ語、さらには古代ギリシャ語などと言われた日にはお手上げだ。原書を読み始める前にあの世からお迎えが来てしまう。もし私が語学の才能を有し、外国語を勉強することに楽しみを見出すことができるのならば哲学科で学ぶことも楽しかろう。しかし私にとってそれはただの苦痛でしかない。今更マルクスやウィトゲンシュタインをドイツ語で読む気にはならない。

 そもそも本当に哲学するには原書を読むことが不可欠なのだろうか。確かに、「超越論的」と「超越的」との違い、カントが語る人間理性の構造を示す「感性」、「悟性」、「理性」という言葉の意味合いなどを日本語で理解することは難しい。西洋哲学を学んだことがない者には「悟性」などといってもピンとこない。ハイデガーの主著「存在と時間」の「存在」と「時間」も、それが持つ日本語としての意味合いと、ドイツ語の「Sein」と「Zeit」のそれとでは全く(あるいは少なくとも微妙に)異なると推測される。その意味で西洋哲学者とその思想を本格的に理解し評論しようとする者にとっては、原書を解読することは欠かせない作業と言える。そして、それが日本の哲学界の制度となっており、私のような語学に疎い者はその門を潜っていくことができない。しかし哲学の目的は哲学者とその思想を分析することだけで尽きるものではない。人生、社会、自然について私たちが抱く様々な知識と関心と、そこに発見される諸問題について様々な観点から考察することがより重要な哲学の課題となる。昔の哲学者が何を言いたかったのかを論じるよりも、寧ろ、こういう問題を真摯に考察することの方が遥かに意義深い。哲学者たちの考えやその著作を理解することはそのための道具に過ぎない。それゆえ哲学書を原書で理解することは哲学の必要条件でも十分条件でもない。今に生きる者は誰でも哲学することができる。ただ過去の多くの哲学者が自分と同じような問題意識を共有していたことが分かれば、そこから多くの手掛かりを引き出すことができる。だからこそ哲学書を読むことに意義がある。だがそれは原書を忠実に読み解かなくてはならないということではない。原書を読まなくてはいけないという強迫観念は現行の哲学という制度を権威付けるための幻想でしかない。そしてこの制度は本来誰でも無償で入場できる哲学という城に人々が入ることを拒む。大学や大学院の哲学科とその教授が中心となる制度化された哲学というシステムが、哲学をカフカの「城」のように近づきがたい存在に祭り上げ、人々の哲学への関心を打ち砕く。

 哲学するために原書を読む必要はない。なるほどマルクスを真に理解しようとするなら、原書で「資本論」や「ドイツ・イデオロギー」あるいは「経済学哲学草稿」を解読することが最善の道だろう。しかし私の目的はそこにはない。マルクスから、資本論から、何か哲学することの手掛かりを掴むことができればそれでよい。そして哲学専門家以外のほとんどの人にとっても同じことが言える。つまり、人々が必要とするものはマルクスや資本論そのものではなく、手掛かりなのだ。翻訳の「資本論」を読んだだけでは、本当の意味で「資本論」を読んだことにはならない、マルクスを理解したことにはならないと哲学専門家は指摘する。だがそれにはこう返答したい。「確かに私はマルクスの資本論を読んだのではないかもしれない。しかし、私は間違いなく、マルクスのドイツ語で書かれた「DasKapital」に触発されて書かれた岡崎次郎の「資本論」を読んだ。そして深い感銘を受けた。二つの著作の間に決定的な差があると言うのならば、私は「マルクスの資本論」を「岡崎次郎の資本論」と言い換えることをいささかも躊躇しない。」確かに、マルクスの原書と岡崎の翻訳書には埋めることができない差異がある。それゆえ岡崎や向坂の資本論しか読んでいない者(たとえば私)にはマルクスの権威を振りかざす権利はない。だが、そのようなものがないからと言って、何の不都合があろう。  そうは言っても、このような考えを抱く限り、(仮に入学できたとしても)大学・大学院の哲学科で論文を書くことはできない。そして論文を書かなければ業界で一人前と認めてもらえない。一人前になれなくてもよいのであれば、お金を払って大学や大学院に進学し好きでもない勉強をする必要はない。そもそも貧乏な者でも、不幸な者でも、誰でも、いつでも、どこでも自由に取り組むことができるところに哲学の価値がある。

 原書を読むことが哲学者に不可欠とする制度は結局のところ、ごく普通の人々、信仰が薄れてきた現代、本来ならば最も哲学を必要とする人々から哲学を疎外する。「翻訳書ではなく原書を読まなくてはいけない」、「最初は翻訳書から入っても必ず原書を読まなければいけない」などという声に惑わされるのは止めにしよう。外国語が得意な者は大いに原書を読めばよい。しかし苦手な者は大いに翻訳書を読めばよいのだ。ただそれが原書とは大きく懸け離れた思想を語っている可能性があることを覚えておけばよい。それさえ忘れなければ、マルクスの原書からも、岡崎や向坂の翻訳者からも同じように、私たちは哲学することの手掛かりを得ることができる。


(H21/7/4記)


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