若いころ共著でデータ通信関連の本を書いたことがある。そんなこともあり自己紹介をするときにはデータ通信が専門だということにしている。実際四半世紀前は事実だったし、今だって満更嘘とも言えない。だが四半世紀でデータ通信技術は様変わりし、知識や経験が通用しなくなったことは否めない。 電子メールがネットワークで消失することがある。かつては、こんなことは絶対に許されなかった。預かったメールを紛失することは通信の秘密を侵すことの次くらいに電気通信事業に携わる者にとって、あってはならないこととされていた。若いころ「システムが不安定になったらメールを削除してもよいか」と質問して先輩に怒鳴りつけられたことがある。実際電子メールが消失する事故は一度としてなかった。ところが今では預かったメールがルータやサーバの故障や輻輳で消失することがある。そして若い技術者はそのことを気にも留めない。 どちらが良いか悪いかという問題ではない。四半世紀前と今ではネットを流れる電子メールの数は8桁くらい違う。だから紛失などの事故も発生する。そもそもIPはかつてのデータ通信方式と異なりネットワークでパケットの送達を保証せず、メールに限らず情報の喪失が常に発生しうる。それゆえ送達確認は利用者側で行う必要があるが、逆に言えば利用者側の端末が高機能化したことでそれが可能となりIPが普及したとも言える。 (注)厳密に言えば電子メールはサーバ間で送達確認をしているのでIP網で廃棄されることはない。ただIP技術が普及しサーバーやルータの汎用化、低価格化が進むことで電子メールの消失も起きるようになった。 いずれにしても時代は変わった。かつての低速で機能は乏しいが信頼性の高いネットワークとそこで働く頑固者は消え去った。自分はまだ新しい時代に適応できるという自負がある。適当な環境を得ることができれば、IPの勉強をして資格を取ったり関連した技術開発に携わったりすることだってできると信じている。それでもやはり自分は過去の人間だという思いに襲われる。それは技術についていけなくなったというよりも、IP時代に生きる人々の行動や思想についていけなくなったからだ。だが、そんな自分は旧態依然の人間なのだろうか。いや、むしろ自分こそ正常なのだと考えたい。少々料金が高くとも預かったメールはしっかり最後まで届けるべきではないだろうか。 了
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