本を片付けていたら、相対論的場の量子論の教科書「FIELDS AND PARTICLES」が目に止まった。懐かしさで胸が一杯になると言えば大袈裟だが感慨深い。著者は2月15日に亡くなった西島和彦先生、昨年書いたエッセイでノーベル物理学賞を受賞した3名と並んでノーベル賞に値する偉大な業績を残した日本人物理学者として名を挙げさせてもらった先生だ。 この本を購入したのは学生時代ではなく社会人になってからだった。入社してすぐの時代で役にも立たない新入社員は暇潰しにこの本で相対論的量子論を勉強していた。あれからすでに30年、相変わらず何を遣っても役立たずのままだが、いつの間にか定年まで指折り数えるほどになった。 それにしても、この本は日本人が書いたとは言え米国の大学生および大学院生向けの英語本で、よくもまあ最後まで読みとおすことができたものだと今では感心する。びっしりと書き込みがしてあり、けっして易しいとは言えないこの大著をおおむね理解したのだ。あの頃は若かった。頭もまだ冴えていたし、未来への希望もあった。数年会社で社会勉強をして大学院に戻り研究生活を送るなどという夢を思い描いていたこともあった。それも遠い昔の話しになった。 西島先生の最大の業績は強い相互作用をする素粒子であるハドロンの分類法則「西島・ゲルマンの法則」の発見(1955)にある。この法則がクォーク理論に繋がり現代素粒子論の幕開けになった。小林・益川理論、南部陽一郎の対称性の自発的破れによる質量獲得機構などもこの業績の延長線上に位置していると言ってよい。この業績でゲルマンは1969年のノーベル物理学賞に輝いた。確かにクォーク理論を確立したゲルマンの業績は画期的なものだった。しかし西島先生が同時にノーベル賞を受賞しても少しも不思議ではなかった。事実「西島にもノーベル賞を」という声は当時日本のみならず海外でもかなり強かったと言われている。だが先生は受賞を逃した。不運としか言いようがない。 だが、それでも自然の秘密を発見したことで先生は大いに満足されていただろうと思う。人の手で作られたノーベル賞など宇宙の普遍的真理に近づくことに比べれば微々たるものに過ぎない。 しかし、宇宙の普遍的真理に接近することが出来た者も、やはり普通の人間と同じように死んでいくことを思うと複雑な気持ちになる。そして素粒子や宇宙を研究して何の役に立つのかと問う人の声が耳元に聞こえてくる。基礎研究は当初実用にはならないと思われていても将来大きな技術的革新を生み出すことがあるというのが教科書的な答えだが、現代の素粒子論や宇宙論が産業や生活に応用される日が来るとは考えられない。それは余りにも日常的な世界から懸け離れているからだ。ただ素粒子や宇宙を研究するために開発される実験装置や観測機器は産業や生活に役立つ可能性はある。だがそれはあくまでも間接的な成果であり研究そのものと直結することではない。 有限な人間が無限の宇宙を仰ぎ見て真理を探究する。たとえ真理を得たとしても、いずれ宇宙の真理に従いこの世から消えていく定めであることを知りながら。人というのは実に不思議な存在だ。だがこの不可解な真理への意志こそが、良くも悪くも人類に進歩をもたらした。真理への意志はニーチェにはたいそう評判が悪いが、それでもそれこそが文明に不可欠な人間性の本質なのだ。素粒子や宇宙研究が何の実用性もないと分かっていても、だからと言ってそれを止めるようになったら人類の進歩は止まり、おそらく人類は滅びていく。だから真理の探究は廃れることはなく、廃れさせてはならないのだ。たとえそれが資金の無駄遣いに見えるとしても。 西島先生の本は日焼けやシミだらけになっている。書き込みが多数あり古本屋で売っても二束三文にしかならない。だが、この本には私の生きた証、いや生きている証がある。歳をとると人はしばしば自分の可能性が著しく萎んだと意気消沈するが、無限の宇宙とその真理を思えば人などという存在は生まれたときから可能性などないに等しかったことに気が付く。だからこそ真理への限りない憧れがあり、その中で人は生きていることを実感する。この古びた本には私がいる。私はこの本とともに生きていける。一度もお会いしたことはないが西島先生には感謝を表す言葉が見つからない。今はただひたすら先生のご冥福をお祈りしたい。 了
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