☆ 哲学は必要か? ☆


 「21世紀を切り開く新しい哲学が必要だ。」、「日本の政治家や経営者には哲学がない」などとよく言われる。哲学とは何か重要なものらしい。だが、「哲学とは何か」と聞かれてまともな答えを返すことが出来る日本人はごく限られている。こんな程度だから、日本人に哲学が必要なのかもしれないが。

 上のような表現で使用される「哲学」という言葉の意味合いは、大体のところ、「熟慮に基づく明確な目標と方法」というようなものだろう。「目標の明確化」、「目標にいたるプロセスと方法の確立」、「プロセスと結果の評価とフィードバック」などが「哲学」という言葉に含められている意味だ。ポリシーと言い換えてもよい。いや、むしろ、「哲学」などという衒学的な言葉を使用せずに「ポリシー」という言葉を使った方がよい。

 「哲学」とは、古代ギリシャの思想家とくにプラトンの思想に始まる西洋社会特有の思考方法とそれに基づく学問体系と基礎的な方法を意味する。東洋哲学という言葉が使われることもあるが、「哲学」とは基本的に西洋社会のものであり、東洋哲学ではなく東洋思想と呼ぶべきだ。

 「哲学」の基本的な発想は「目の前にあるものが本当にあるとは限らない。いな、目の前にあるものは本当のものではない。」というものだ。私はいまパソコンを前に座っている。私はパソコンが目の前にあると信じている。これに対して、プラトン、デカルト、カント、フッサールなど大哲学者は、目の前に在るパソコンが本当に存在するか、パソコンそのものがそこに本当に現れているのか、常に疑ってかからなくてはならないと教えた。

 「目の前のパソコンが実は存在しないなどということは考えられない」というのが一般人の常識だが、この常識を一度は疑わないと哲学者にはなれない。20世紀の偉大なイギリスの哲学者ムーアやウィトゲンシュタインは「常識は正しい」あるいは「常識を一々疑っていたら言葉を使用することはできない。」と常識を擁護した。だが、ムーアやウィトゲンシュタインは、常識を疑うことから始めて、「常識は信頼できる」(ムーア)あるいは「常識を一々疑うことは意味がない」(ウィトゲンシュタイン)という結論に達したのだ。凡人のように端から「パソコンは在るに決まっている。だって、見えているし、手で触ることもできる。」などと能天気に信じることはない。

 もう少し簡単な例を取り上げて説明しよう。誰でも、新聞記事や解説に疑問を持つことはある。だが、普通の人は、新聞報道の内容や主張に疑問を持つことはあっても、「新聞は存在しないかもしれない」、「紙の上にあるのは文字ではなく、ゴキブリの糞かもしれない」などと疑うことはない。「そんなばかなことがあるはずはない。」と笑われても、あるいは非難されても、「新聞が在るという根拠は何か」、「そもそも、これを『新聞』と呼ぶ理由は何か」などと次から次へと異論を提起して、怯むことも飽きることもない。こういうことが、哲学することであり、こういうことを妥協することなく遂行できる人が哲学者になるための素養を持つ人だ。プラトンの著作に登場するソクラテスを考えれば、それがわかるだろう。

 こんなことを語ると、哲学は、非常識なものの考え方、当たり前のことをわざと難しく考えることだと思われるかもしれない。そのとおりだ。だが、こういう捻くれた考え方が、西洋思想が世界制覇する原動力の一つだった。

 月が地球の周りを回っていることと、リンゴが地上に落ちることから、どうやったら万有引力の法則が導き出されるのか不思議に思ったことはないだろうか(ない人は哲学者にはなれない)。万有引力のような発想は目の前の物や出来事をありのままには信じないという態度からしか生まれない。だが、それをただ信じないというだけではなにも得られない。目の前の物や出来事を信じないなら、どうやったら本当のことを見つけ出せるのか、それが大問題となる。

 プラトン、デカルト、ライプニッツ、カント、フッサールなどの大哲学者は、人生のすべてを賭けて悪戦苦闘した挙句、その答えを見つけた(正確に言うと「見つけた」と信じた)。全員間違った答えしか与えてくれなかったが、こういうある意味常識から言えば偏執狂的なものの発想や行動が、偉大なる近代西洋思想とその産物である科学技術文明をもたらすうえで大きな役割を果たした(と言えなくもない)。だから、哲学を全く無意味な言葉のお遊びだと言うことはできない。

 とはいえ、日本人が、政治家や経営者に求めているのはこんな偏屈な哲学者精神ではないだろう。小泉首相が「日本は本当に実在するのか。国民とはどのような意味で存在するのか。もしかしたら、すべては私の想像に過ぎないのではないか。」などと本気で考え出したら、すぐにでも首相交代させなくてはならない。常識に適う常識的な発想、ただ、その指針が明確になっていること、人々が「哲学が必要だ」などという言葉で求めているのは、単にこういうことだろう。だが、これは哲学でもなんでもない。だから哲学は別にいらない。

 こんなことを言っても、「いいじゃないか、別にみんな深い意味で「哲学」という言葉を使っているわけじゃない。なんとなく気の利いた言い回しができるというだけだ。」と反論されるだけだろう。

 そのとおり、それでよい。ただ、私は哲学する者であり、あなたは哲学する者ではないというだけだ。


(H15/8/28記)


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