☆ 古書で感じる経済法則? ☆

井出薫

 8月初め、神保町の古書店街でかつて岩波書店から出版されていた「微分方程式の解法(第2版)」(吉田耕作著、岩波全書、1978年第2版発行)を探した。30年前にお世話になった本で、ときたま微分方程式を解く機会があり、この本を思い出し、もう一度目を通したくなったのだ。すでに絶版になって久しく、新刊本の書店にはどこにも置いていない。そこで、いつもの散歩道、神保町古書店街で探すことにする。さすが神保町、某古書店ですぐに見つかる。ところが値段は3500円。30年前の値段だが定価は1300円。ちょっと高いのではないか、今、復刊したら3000円くらいだろうと考えた。だが背ヤケが若干あるが、中身は新品同様とまではいかないが綺麗で悪くない。一寸迷ったが、昼に寿司を食べる予定を蕎麦で済ますことにして購入した。

 そのときは別に後悔した訳ではない。歳の所為か頭の回転が悪くすぐに理解できないところが多かったが、少し経つと30年前の記憶が蘇りすらすらと先に進むようになり、必要なところは無事クリアしたので大いに満足した。ところが購入してから1か月ほど経った9月中旬、何とこの本が復刊して書店の数学書コーナーで大量に陳列されているのが目に飛び込んできた。しかも値段は予想通り3000円プラス消費税で3150円。1か月我慢すれば350円、つまり1割安で新品が購入できたのだ。岩波書店のホームページで8月復刊予定の本は事前に調べたのだが、9月復刊の記載はなかった。絶版になって久しく、しかもこの分野では新しい良書がたくさん出版されているから、この本が復刊されることはないという予想もあった。8月上旬には岩波書店では復刊が確実に決まっていたはずで、電話で問い合わせれば9月11日復刊の情報を掴むことができたはずだが、そこまで頭が回らなかった。

 復刊していることを知った時には正直しまったと後悔した。何か物凄く損をした気分になった。だが、考えてみると、3500円という値段は購入時点で(経済学の教科書に記される)限界効用を下回っていた。だから購入したので、けっして損をしたわけではない。なるほど一か月後に復刊することが分かっていれば図書館で必要なところだけ書き取り、新刊が出てから購入したかもしれない。だが復刊することが分かっても値段が決まっていなかったら3500円を高いと感じず、やはり古書店で購入していただろう。衝動買いをしたわけではなく熟慮したうえで購入したのだ。しかも期待通り、最近の著作と比べ内容が古いところがあるとは言え、定評のある名著だけあって本にはいささかの不満もない。購入は正解だったのだ。

 しかし、もし保存状態が同程度の本が近くの古書店で3150円で売っていたらどうしただろう。そちらの方を購入したことは間違いない。実際、最初に見つけた古書店ですぐに購入したのではなく、神保町古書店街を一通り回って他の書店にはないことを確認してから購入したのだ。消費者は消費者利得(限界効用−価格)が最大になるように行動すると経済学の本には書いてあるが、これは正しい。だとすると3500円での購入が正解だったのか疑問が残る。

 ただ本を購入した8月初旬と、復刊本が書店に並んだ9月中旬では限界効用は違っていたと思う。8月初旬は、どうしても欲しかった。だがそのときに見つからず購入を諦めていたら、9月中旬に復刊されてもそのときには購買意欲は薄れていた可能性がある。あるいは8月初旬に他の本を購入して9月にはこの本は不要になっていたかもしれない。

 こう考えていくと8月の購入は正解だったということに落ち着く。消費者利得最大化に成功したかどうかは定かではないが、購入の利得が3500円を上回っていたことは間違いない。役に立たない、現実を正しく説明できない、資本主義を絶対視している、などと日頃は現代経済学にケチばかり付けているが、自分の行動を鑑みると、現代経済学は人間と社会を理解する上で有益であることが分かるような気がする。但し、あのとき本を買わずに寿司を食べた方が消費者利得は大きかったのではないかと問われると答えには自信がない。



(H20/10/14記)


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