「文は人なり」という言葉がある。若い頃はこの言葉に反感を覚えた。理由は簡単、文章が下手だからだ。だが歳をとった所為か、この言葉は当たっていると素直に認めることができるようになった。事務的な文章は別として、手紙、小説やエッセイ、一般向けの解説書などでは人柄や知性が現れる。 朝永振一郎や湯川秀樹のエッセイや解説書は実に良く出来ている。翻訳を読んだだけなので評価に自信はないが、ワインバーグ・サラム理論で素粒子の標準理論を確立したスティーブン・ワインバーグの解説書も卓越している。やはりこういう高い知性の持ち主はそれが文章に現れる。 文章は下手でも立派な人や賢い人はたくさんいる。文章は優れているがとんでもない人物もいる。しかし総じて言えば頭の良さや人柄の良さが文章に現れる。幾ら練習を積んでも書くのが速くなるだけで内容は余り向上しない。 ビジネスの文章や機器のマニアル作成などは慣れてくると簡潔で分かりやすく書けるようになる。おそらくこういう事務的な文章は書くためのアルゴリズムがあるからだろう。アルゴリズムがあれば、それを身につけることで誰でもそこそこに良い文章が書けるようになる。だが普通の文章はそうはいかない。そこには人格というアルゴリズムで表現できない何かが潜んでいる。 コンピュータにエッセイや小説を書かせようとする試みがある。アルゴリズムが発見できればこれは可能になる。そうなれば人々は人間の作家が書いたものではなく、コンピュータが書いた小説やエッセイを読むようになるだろう。アルゴリズムが確立されればコンピュータの正確さと速度は人間を遥かに凌ぐから、人間の作家はコンピュータに太刀打ちできなくなる。 だがそんな日が来ることはない。文章に現れる人格とはけっして作者の内部に秘められた孤立した実体ではない。作者と読者、そして両者が置かれた社会的な文脈、この3者において初めてその真の姿を現すもの、それが人格であり、脳の神経回路の構造や状態が人格なのではない。これは別に読者が作者を完全に理解するという意味ではない。読者も作者も互いに裏切られる存在として社会に組み込まれている。寧ろ誤読の可能性が人格と文章を真実にすると言ってもよい。 それゆえ、人格とはコンピュータでシミュレーションできるようなものではなく、コンピュータが生み出す小説やエッセイにはおのずと限界がある。読者はコンピュータが書いたエッセイを面白いと感じることはあるかもしれないが、そこに世界の広がりを実感することはない。コンピュータは人間社会の中でモノとして存在しているに過ぎず、人格という言葉で表現されるネットワークの中に占めるべき場所を持たない。 こう考えていくと、私の文章が拙劣なのは私だけの責任ではないことが分かる。社会というネットワークが私に拙劣な文章を書かせている。とは言え、私の文章で私の占める役割が極めて重要であるという真実から逃れることはできない。やはり知的にも人格的にも私に責任がある。反省して精進することにしよう。今回も反省だけで終わる予感がするが。 了
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