深夜トイレの電球が切れてコンビニに買いにいく。すると何と40年ぶりに小学校の同級生に出会う。何と年取ったのだろうと驚く。風の噂で奥さんと離婚したと聞いていたので、何かと気苦労が多く老けてしまったに違いないと想像する。 ところが話しをしているうちに、相手の方も私が余りに老けこんだので驚いていることに気が付く。何のことはない、互いに相手が年老いたのを見て驚いていたのだ。なぜ離婚したのかは聞かない。結婚経験のない者が聞いても役に立つ忠告はできないし、ただ独身の気楽さと寂しさを語り合うだけに終わる。しかし若いころから独身の者と離婚した者では何か違いがあるだろう。少しはその話しをすればよかったと後悔する。しかし長話しをするには夜風は余りに冷たかった。時刻はすでに深夜2時を回っているのだ。大して仲が良かったわけでもないので再開の約束もせずに別れる。 彼はどんな暮らしをしているのだろう。奥さんの家に暮らしていたから彼の方が家を出るしかなかった。子供はいない。彼の両親はすでに他界して身寄りと言えば姉がいたはずだが、離婚した弟を住まわせてやる家など持ってはいない。話しぶりからしても一人で小さなマンションに暮らしているらしい。 年を取るということに大した意味はない。過去が膨らみ未来が萎むだけだ。多くの能力が衰えたが、思慮深くなり物事に対して冷静な対応ができるようになる。失ったものは少なくないが、得たものも少なくない。そもそも失うものも得るものも実のところ大したものではない。 しかし同世代の者と久しぶりに出会うと失った年月と残り少なくなった未来に思いを寄せざるを得ない。出世している者、弁護士や大学教授として成功している者、羨ましくなる者も少なくないが、誰もがどこか寂しい。人は、他人との関わりの中で自分を評価して未来を展望する。とりわけ同世代の姿が鏡になる。私の姿を彼に投影して、彼に私の姿を見る。そして誰もが25年先の自分のことなど想像したくもないことに気づく。やはり年を取ることは侘しい。この侘しい現実を忘れて生きるのが良いのか、現実を直視して生きていくのが良いのか、誰も答えられない。このことこそが年を取ることの意味なのかもしれない。 了
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