☆ 誕生日は嬉しい ☆


 インターネットサービスプロバイダから「お誕生日おめでとうございます」というメールが届いた。忘れていた自分の誕生日を思い出す。

 53にもなると誕生日がおめでたいという気持ちは薄れる。寧ろ忘れてしまいたい気分だ。そうは言っても、「お誕生日おめでとう」と言われると悪い気はしない。複数のプロバイダーに加入しコストが嵩むので整理しようと考えていたが、メールを送ってくれたプロバイダーは解約対象から外した。うまいサービスだ。

 この歳になると、いろいろな面で先が見えてくる。今さら結婚する気にならないし、しても子供を作ることはない。その一方で親を見送ればほぼ天涯孤独になる身に不安を感じる。これから先、世間を唸らせるような大きな仕事ができる見込みはない。子供の頃、自宅から徒歩10分の場所に日本で二人目のノーベル賞受賞者朝永振一郎先生がお住まいになっていたこともあり、天才物理学者になるのが夢だったが、今となっては実現する見込みはない。哲学愛好家と自称しても、カントやウィトゲンシュタインになれるわけではない。何回読みなおしてもその都度魅了されるカフカになることもできない。後は老いていくだけだというあまり楽しくない予感だけが残る。10年前なら関心の対象外だった年金がやけに身近な問題に感じる。

 そうは言っても、やはり誕生日はどこか嬉しい。人生を振り返る時、この歳まで悪いことをしないでそれなりに社会に貢献してきたと感じるし、良い仲間がたくさんできたことに気が付く。過去の夢を振り返るのも楽しい。天才物理学者、大哲学者、大文豪、いずれも実現できなかったが、それでもそういう夢を見て暮らすことができた自分は幸福だと感じるし、色々と批判をしても自分にとって日本が快適な社会だったということが分かる。夢は実現しなかったが、そのために色々と勉強したことは私の心の糧になっている。それに楽観的に考えれば、カントが「純粋理性批判」を上梓したのが57歳、「判断力批判」を上梓したのが66歳だから、健康に留意していけば、「大」という文字が付くような思想家・学者、作家にはなれずとも、夢が叶う希望がないわけではない。

 若いときよりも、物覚えが悪くなり、物忘れが多くなったのは事実だが、逆に広い視野で物をみることができるようになった。学生の頃は「資本論」を読みマルクスは絶対だと信じたが、今では若き自分の余りにも単純で一面的な思考傾向を笑うことができる。それは、カント、ウィトゲンシュタイン、アダム・スミスなど多くの本を読み知識が深まったことと、自らの体験と仲間との交流から社会の現実を知り、19世紀中盤の著作である「資本論」の限界に気が付くことができたからだ。IT業界や金融市場を頂点としてめまぐるしく状況が変わる現代社会、高齢者の知恵と経験は軽視されることが多く、それもやむを得ない面もあるが、総じて言えば、今でも「亀の甲より年の功」の諺は正しい。

 誕生日の3日ほど前に秋田で暮らす友と会食の機会があったが、友との会話も若いころより楽しくなった。以前は友との会話でも、どこか虚栄心や競争心、羨望や妬みが混じっていたものだが、そういう不純な物がなくなり素直になった。

 後悔や忘れてしまいたい過去がたくさん脳裏に蘇ってくるが、それでも、そういう苦い思い出を将来の糧とすることができる。「誕生日おめでとう」と言ってくれる人が少なくなるのがいささか寂しいが、それでもやはり誕生日はよいものだ。


(H20/2/19記)


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