哲学は極めて重要だと言われることもあるし、役立たない学問の典型だと言われることもある。筆者も哲学など何の意味もないと言うこともあるし、哲学は大切だと言うこともある。要は「哲学」という言葉は様々な意味、様々な文脈で使用されるということなのだが、やはり哲学という学問が本当に役立つのか、役立つとしたらどんなところで役立つのか考える必要があろう。だが見通しは暗い。 子供たちが子犬を苛めているところに心優しい若者が通りかかり、「子犬の気持ちになってごらん、とても悲しいだろう」と諌める。子供たちも若者の言葉を素直に聞きいれ反省して子犬に謝り大事にしてあげる。そこに二人の哲学者が遣ってくる。そして若者と子供たちを困惑させる。こんなことを言いだして。 哲学者A「君は子犬でないのにどうして子犬の気持ちが分かるのだ。君の言っていることは認識論的に無意味だ。」 哲学者B「いや、そうではない。「子犬の気持ち」という言葉がどのように使用されているかが問題なのだ。」 心優しい若者と素直な子供たちは善い人間だ。神の祝福を受けるだろう。だが哲学者はろくでなしだ。精々褒めたところで「気難しい人たち」と言えるくらいだ。「子供たちのためのウィトゲンシュタイン」という本でも書いてみたらどうかと冗談半分で言われたことがあるが、書く気にはならない。そんなものを書くくらいならば「子供たちのための海の生物たち」、「子供たちのための犬との暮らしかた」などという本を書く人の手伝いをした方がよほどマシだ。哲学は心優しい人や子供たちには役立たない。 どうも哲学が役立つような場面が思い浮かばないが、こういうときは原点に戻ることだ。原点に戻るとなるとソクラテスだろう。ソクラテスは何を遣ったのか。増長して自らが世界一の賢者だ、権力者だと思い込んでいる者の鼻を明かすことだった。 そう、哲学は増長している者たち、自分は何でもできる、自分の考えが一番正しい、自分のしていることはすべて正義だと思い込み、相手の言い分も聞かずに自説を押し付け、言うことを聞かないとすぐに相手を悪者だ、愚か者だと決めつける輩、話し合いが何よりも大切だとか言いながら感情的になるとすぐに権力や権威を持ちだして相手を圧倒しようとする奴、こういう連中と戦う時に哲学は役立つ。「その認識論的な根拠は何ですか」、「その言葉はどのように使われていますか、あなたの先ほどの言葉の使い方と今とでは違っていませんか」、「すべてを疑い、まず自分の意識に浮かぶものを記述することから始めてみませんか」、こういう言葉を投げ掛け、はぐらかして、相手に自分の無知と短慮を知らしめる。これはなかなか痛快でなおかつ役立ちそうだ。特にこういう人物は政治家、官僚、経営者、大学教授、言論人、宗教団体の幹部、大病院の医師、裁判官、弁護士など体制の中核を占める者に多いから、哲学の意義は小さくないことになる。 だが、それでも哲学の存在意義は疑わしい。「税制上の優遇措置を実施して、身体障害者がICTを活用して社会参加ができるような社会基盤を整備しよう。」、「効率的な太陽光発電や風力発電技術を開発して環境保護に役立てよう。」などという前向きな提言に比べると、哲学は如何にも後ろ向きという感じがする。それに哲学自身がエリート主義的な嫌らしさを持っている。 結局、誰もが納得できる哲学の存在意義に関する説明はない。尤も、哲学のエリート主義や陰気さは毒を以って毒を制するという意義がある。権力者・権威者に限らず人間は傲慢になりがちだから哲学はそれなりに役立っているのだろう。ただ、毒としてしか役立たないところに哲学の悲しさがある。 了
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