☆ 信仰の意義 ☆


 「利己的な遺伝子」で著名なドーキンスが宗教を激しく批判した本が出版され一寸した話題になっている。宗教原理主義者のテロやインテリジェントデザイン説(この世の生物は超越的な存在が設計したとする(一見科学的に見える)創造説の現代版)が少なからぬ支持を集めているアメリカならではの著作で、巨大宗教団体が与党に影響を与えているとは言え、宗教心が薄い日本人には余りピンとこない。だが信仰の意義を考える縁にはなる。

 原理主義者のテロには勿論反対だし、インテリジェントデザイン説を支持するつもりもない。だが、限られた時間しか生きることができない一個の人間が人生の意味を考えるとき、信仰はかけがえのないものとなる。

 私が生まれてこなかったら世界はどうなっていただろう。何も変わらない。両親は寂しい思いをしたかもしれないが、余計な苦労もしないで済んだ。その点は私のような凡人でなく有力な政治家、企業家、学者、芸術家などでも大差はない。アインシュタインが生まれなくても相対性理論は誕生した。モーツァルトがいなければ、モーツァルトの音楽はなかったかもしれないが他の音楽で人々は心を癒している。チャーチルのような傑出した政治家がいなくとも、世界の状況はほとんど変わらない。イチロー、中田英寿、木村拓哉がいなくとも、別の人間がスターになるだけだ。安部晋三がいなければ喜んで首相になる人間が無数にいる。そして別に首相が誰でも大して変わらない。

 だとすると人の存在に何か意味があるのだろうか。信仰を持たない限り「ない」と答えるしかないように思われる。精々、「意味などないが生きている、それが全てだ。」というニヒルな答えくらいしか予想できない。だが、それでは余りにも虚しい。うつ病は日本だけではなく世界中で大きな社会問題となっている厄介な病だが、信仰心が薄れた現代という時代における人間存在の根源から発する普遍的な病なのだ。私の存在に意味がないとしたら、鬱な気分を避けることはできない。

 人は、仕事が順調で、自分が役立っていると感じるときには、人生の意味など余り考えることはない。だが、そういう人が突然この世から去っても、他の者が仕事を引継ぐだけで、当座混乱が生じても暫くすれば何事もなかったように世の中は動いていく。それは政財官界の中心人物や優れた科学者、芸術家、評論家、スポーツ選手とて変わるところはない。勿論、残された家族にとってはそうはいかないだろうが、それでも世の中には影響がないし、家族もいずれその事実を受け入れるときがくる。経済的に苦しくなるかもしれないが、それは生きていても仕事ができなくなったり詐欺にあったりすれば同じことだ。

 そんな人間の生に意味を与えるのは、信仰しかない。神や仏がいるかどうかは知らない。神や仏がいるとして、スピノザのように神==実体=自然なのか、自然の外部に神が存在するのか人間の窺い知るところではない。だが神や仏が私の生に意味を与えていると信じることはできる。どんなに自分の存在が無意味に思えても、超越者が私の誕生を決めた以上、私の存在には何らかの意味がある。信仰は私に自信を与え、私の生に意義があることを確信させる。

 こんな風に感じるのは私が歳をとったからかもしれない。若い頃はマルクスに傾倒して、「宗教は民衆の阿片だ」(マルクス)、「恐怖が宗教を生み出す」(レーニン)という言葉を引用して無神論者を気取っていた。だが、今は違っている。徹底した無神論者や唯物論者でいることはできない。

 狂信的な宗教は御免蒙る。権力と化した宗教団体、その押し付けがましい勧誘や批判者へのヒステリックな攻撃には嫌悪しか感じない。だが一人静かに超越者への信仰を抱くことは、所詮しがない考える葦でしかない人間にとって、苦悩や寂しさを乗り越え、生に意味と平穏を与える縁となる。科学と産業が発達した現代、人々は信仰など意味がない、迷信に過ぎないと考えがちだが、ときには信仰の意義を考えてみる必要がある。


(補足)
 私は、体系化・制度化した「宗教」と、その手前にある「信仰」とを分けて考えたいと思っている。だが現実にはそれは容易ではないようだ。

(H19/8/16記)


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