☆ ノーネクタイが意味するもの ☆


 企業でも、ノーネクタイ、ノー上着が定着してきた。猛暑の中、滝のような汗を流して真っ赤な顔をしてスーツとネクタイを着用しているのは見苦しい。今まで良くぞ我慢してきたものだと思う。

 だが一寸気になることがある。日本企業は従業員を家族のように大切にすると言われた時代があった。だが実際は従業員と企業は雇用契約という契約関係で結ばれている仲でしかない。企業にとって従業員をできるだけ効率よく働かせることが利益の拡大に繋がり、従業員も効率よく働いて高い賃金と虚栄心を満足させる地位と名誉を得ようとする。

 ノーネクタイ、ノー上着はその意味で企業と従業員双方の利益になる。暑苦しい上着とネクタイは従業員の作業効率を落とし生産性低下に繋がる、従業員も働きにくい上に余計な出費が生じる。なしで済ませられるならば双方に都合がよい。だが、そのことで、企業と従業員が互いに功利的な契約関係で結ばれていることが露呈する。

 暑苦しい背広とネクタイを着用して汗を流して事務所に帰ってきた営業マンを、上司がご苦労さんと労い、帰りに一杯遣っていくかと誘う。工事現場で汗みどろになって働いている従業員に、視察に来た役員が一杯振舞う。こういうことで欧米企業の契約に基づく合理的人間関係とは異なる、良くも悪くも日本的な企業組織が成り立っていた。だが、ノーネクタイ、ノー上着が定着したことは、旧来の日本式企業組織と人間関係が解体したことを意味している。

 旧来の日本式企業組織と人間関係が優れたものだったと言うつもりはない。上下関係を超えた家族的連帯感は、企業の強みとなり従業員に安心感と誇りを与える一方で、組織に反抗する者を陰湿な方法で排除し、外部に対する閉鎖的な姿勢に繋がっていた。談合なども日本型組織と人間関係の排他性、閉鎖性の象徴だったと言えるだろう。

 だからと言って、欧米型のドライな契約関係が善いとも言えない。そこでは労働者は労働力商品として徹底的にモノ化されている。確かに労働者は物言うモノであり、人権や民主が制度的にしっかりと保証されている。しかし、たとえそうであっても、従業員が非人間的なモノに貶められていることに変わりはない。マルクス主義者は、資本主義社会の民主制度や人権はブルジョア民主主義、ブルジョア的博愛主義に過ぎないと批判する。イスラム原理主義者は、西洋式のデモクラシーはイスラム教徒には不要だと反発する。彼(女)らの非難が偏ったものであることは否めないが、モノ化された労働者たちの在りようを考えたとき、その批判にも一面の真理があると言わなくてはならない。欧米企業の合理主義的な組織と人間関係は最良のものでも普遍的なものでもない。

 日本式企業組織と人間関係を、西洋式のそれに置き換えることは、一つの悪から別の悪に移ることでしかない。しかも、後者の方がまだマシだ、とも言い切れない。ノーネクタイとノー上着は日本社会の抜本的な変容を示唆するが、そこに含まれている意味を十分に吟味する必要がある。


(H19/7/1記)


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