「美しい国」、「美しい星」、安部首相は本当に「美しい」という言葉が好きらしい。 美しいものは誰でも好きだ。だが美しいということと「美しい」という言葉は違う。「美しい」という言葉を多用することには胡散臭さが付き纏う。 何が美しいかは見方による。私にとって美人でも他人にとっては美人ではないことはよくある。20世紀を代表する文学作品、プルーストの「失われたときを求めて」でも、主人公が愛した女性が他の男には美しく見えないことを知り衝撃を受ける場面がある。 かつて世界一の透明度を誇った摩周湖の景観は実に美しい。だが透明度が高い湖は生物には暮らしにくい場所で、富栄養化して濁った水の方が魚など多様な生物を育むことができる。生命に満ちた生態系を美しいと人は言うが、摩周湖の美しさとは意味が違う。湖の汚染が進むと魚などの大型生物は著しく減少するが、その代わり毒々しく青緑に水面を彩る藍藻類、藍藻類の死骸を分解する細菌、酸欠状態で増殖する細菌などが大繁殖して、バイオマスは美しい湖を遥かに凌ぐことになる。だが人はこういう湖や池を美しいとは感じない。 国の命令で自らの命を犠牲にした特攻隊員の生き様を潔く美しいと言う人がいる。だが、筆者は美しいというよりも哀れと感じる。「家族や愛する人のために生きて帰りたい」、「体当たり攻撃など無意味ではないか」と叫ぶことが何故できなかったのか。そういうことを言うこと、いや考えることすら許さなかった狂気の時代、そういう時代を作り出した権力者たちに強い憤りが湧く。特攻隊員の潔さには強く心打たれるが、「美しい」という言葉で形容する気にはなれない。 何が美しいかは人の感覚や経験により異なる。環境が変化すれば美しいものも変わる。普遍的な美しさなどないとは言い切れないが、美しさの多くは儚いものでしかない。 「美しい」という言葉の美しい響きは、ときとして人々の心を弛緩して自由で健全な懐疑精神を奪い取る。「美しい」とか「普遍の理念」などという言葉をやたらと使う政治家や官僚、経営者には要注意だ。 了
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