自分の顔を意識し出したのは小学校の3、4年の頃だったように記憶する。ガラス戸に映った自分の顔を眺めて、自分の顔が不細工なことに気がつき衝撃を受けたことを覚えている。それから暫くして、国語の教科書か何かで、「40を過ぎたら自分の顔に責任を持たなくてはならない」という言葉を目にして、一体この不細工な顔にどうやって責任を持てばよいのか、大いに悩み、また反発したものだった。 整形手術をすれば美しくなれる。だが不細工でも自分の顔を変えることには抵抗がある。周囲との関係が顔を変えることで変貌してしまう不安があるからだ。逆に言えば、周囲との関係が上手くいかず、そこから抜け出したいと願う者は、整形して顔を変えるのは一つの有効な手段だろう。 顔は、物理的には身体の一部に過ぎないが、人格的存在である人間にとって、その大部分だと言ってもよい。他人に自分を理解してもらおうとするときも、他人を理解しようとするときも、その入口は顔になる。誰でも入口は奇麗に飾り立てておきたい。だから、美しくない者は自分の不運を嘆き、美しい者に憧れ、ときには嫉妬する。 50を過ぎて漸く「40を過ぎたら自分の顔に責任を持て」という言葉が少しばかり実感できるようになった。どんな美女や美男でも気持ちが沈んでいるときや興奮しているときは美しくない。逆に、作りは不細工でも、心が健やかで穏やかな者の顔は人に悪い感じを与えることはない。 40はまだしも、50を過ぎれば、幾らエステに励んでも、奇麗に着飾って上手に化粧しても、近くで見れば歳が分かる。女も男も、その顔には若いときの輝きはない。 だから歳と共に心の在り方が大切になる。心が安定していれば、感じのいい顔になり、周囲との関係が上手くいく。 ところが、理屈で分かっていても、なかなか実行できないから皆苦労する。筆者のように心がすぐに動揺してしまう者は尚更そうだ。そして、詰まらないことでいがみ合い、互いに傷つけあう。威張って見せているくせに、心の中は怯えている。そのためにどれだけの時間と空間が浪費されていることか。もし世界の人すべてが柔和で正直で、それが顔に現れていれば、今の半分の労働で、今以上の実りを得て、皆が楽しく暮らすことができるだろう。 ニコニコと笑っている幼児の顔をみて心が和まない者はいない。逆に一人ぼっちで寂しそうにしている幼児を見て心が痛まない者もいない。幼児の無邪気さは古今東西を問わず理想と考えられてきた。大人は幼児に戻ることはできない。幼児のときどんな気持ちでいたか記憶している者はいない。 だが、幼児に戻ることはできなくとも、私たちは幼児と交わることで失われた記憶と無邪気さを少しばかり取り戻すことができる。教育は幼児を大人にするためのものだと思われているが、大人が幼児の無邪気さを取り戻すための試みでもある。幼児の顔を優しく眺め、幼児を理解し、一緒に遊ぶとき、大人はよい顔を取り戻す。近くに幼児がいたら積極的に触れ合いを求めてみよう。もし幼児が怖がるようだったら、自分の心の歪みが顔に現れているのかもしれない。そのときには鏡をみて、よく反省した方がよいだろう。 了
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