☆ 雨が降り続いたら ☆


 例年だと、学校が夏休みに入る頃には、灼熱の陽光が大地に降り注いでいる。ところが今年は雨が降り続いて、関東地方では梅雨明けの見通しすら立っていない。

 ところで、こんなことを言うと歳がばれるが、梅雨空を眺めていたら、ふと朝丘雪路さんが甘い声で歌う「雨が止んだら、お別れなのね」という曲を思い出した。このまま梅雨が明けなければ、愛する男女は別れないですむのだろうか。まあ梅雨が明けるより先に、どちらかが飽きて出て行ってしまうだろう。人の心は天気よりも気紛れだ。尤も、このまま梅雨が続いたら少子化対策にはなるかもしれない。停電でも起きればさらに効果は大きい。

 それはそうとして、雨が降り続かないで、必ず止むというのは一寸不思議な気がしないでもない。太陽で熱せられた海洋から蒸発した水蒸気が、上空で冷却されて雲となり大地に雨が降り注ぐ。もし水蒸気の供給と雨の供給がバランスしていれば、雨は止むことなく降り続いてもよいはずだ。だがそういうことはなく、必ず止んでくれる。気象学者ではないから理由は分からないが、多分地軸が公転面に対して傾いていて四季の移り変わりがあることで、雨が降り続くという状態が物理的に実現不可能になっているのだろう。

 ありがたいことだ。もし本当に雨が降り続いたら、少子化対策になるどころか、人々はそんなことをする気もなくなってしまい、一層少子化が進むことになろう。

 だが、それは、今までにそんなことがなかったからで、地上に生命体が登場した頃から雨が降り続いていたとしたら、そういう環境に適応した生物が地上で繁栄していたはずだ。

 では、もし1年中雨が降り続いているとしたら、自然は、そして人間社会はどのようになっていただろう。

 全くの素人考えだが、こんな風になっていたのではないか。

 昼間は雨が降っていても、太陽光は地上に届いている。だから植物が光合成できないということはなく、地上が不毛の大地になっているということはない。効率よく光合成する植物が地上に繁殖しているはずだ。ただ、光が弱いから、その成長速度は現在の植物のそれよりも遥かに遅い。その分、植物に全面的に依存しなくては生きていけない陸上動物は、今ほどたくさん存在することはできない。しかし、だからと言って、生態系の多様性が著しく貧弱になるとは限らない。数は少なくとも多種多様な種がそこでも共存共栄している可能性は十分にある。

 ところで、こんな環境でも、人間のような知的生命体は誕生するだろうか。たぶん時間はもっと掛かるだろうが、おそらく人間に優るとも劣らない高度な知能を持った生命体が誕生すると予想する。生命体という存在には、高度に分節した言語を操り、自然界には存在しない道具を作り、文字を使って記録を残して技術や文化を継承していく知的生命体へと発展する必然性が内在しているような気がするからだ。さもないと、現在の地球のように、知的生命体である人類の文明と多様な生態系が共存している世界は実現不可能に思える。

 さて、人間のような知的生命体が存在したとして、それはどんな格好をしているだろう。多分人間のように二足歩行している。そして、手を自由に使うことができる。手が自由に使うことができるということが、道具を作り、文字を生み出し利用することに欠かせないからだ。もちろん、足が4本、手も4本ということも考えられなくはないが、何となくバランスが凄く悪い気がする。−ただし、そう思うのは、筆者が人間中心主義に陥っているからかもしれない。−

 だから、雨が降り続く大地に生きる知的生命体は、人間と割とよく似た格好をしているのではないかと予想される。さて、そこで次に、身体のサイズだが、一寸考えると、植物の発育が遅く十分なエネルギーが得られないから、小型になると予想されるかもしれないが、寧ろ逆ではないかと考える。身体のサイズが大きいほど、体積に較べた表面積の割合が小さくなりエネルギーの散逸が相対的に少なくなる。つまりエネルギー効率がよくなる。それは、表面積は半径の2乗に比例して増加するが、体積は3乗に比例して増加するからだ。もちろん運動の量にもよるが、同じ程度の運動をしているのであれば、小動物の方が、身体が小さい割にはたくさん食べなくてはならない。

 人間のような知的生命体になれば、一日の活動量が小さいとは考えられない。沈思黙考するだけでは知的生命体は進歩しない。「知的生命体」と言っても、「考えること」にその本質があるのではなく、身体的な活動を活発にして、自然界には存在しない様々な道具−そこには文字も含まれる−を作り出すことにその本質がある。だから、知的生命体は、盛んに活動することが不可欠になる。

 だとすると、身体のサイズは大きい方が有利になる。たぶん、この世界の知的生命体は現生人類よりも成長がずっと遅く、成長しきるまでにたとえば50年掛かるが、成長しきると、その身長体重は現生人類の2倍程度、さらに寿命は150年くらいになると考えられる。それと、いつも空には雲が立ち込めて暗いから目がずっと大きく、また肌の色素は薄いだろう。

 さて、その社会はどのような特徴を持つだろう。社会は生物学的な特徴や自然環境だけで決まるものではなく、文化や思想に大きく依存する。しかし、雨が降り続き、子供たちの成長が遅く、人口増加も余りない世界では、戦争というものは存在しないと思われる。人々は助け合って生きていかないと、滅びてしまうか、折角の潜在的な知的能力を活かす機会を逸してしまうことになる。しかも身体が大きいから争いを始めるとその影響は大きい。だから、もし、そこで文明が誕生するまでに進歩することができたならば、おそらく極めて平和な社会が出来上がっているに違いない。気が優しくて力持ちの人々の社会、それが、雨が降り続いている世界の文明社会ではないだろうか。

 これはすべて筆者の勝手な想像だ。専門家に尋ねたら、間違いだらけだと指摘されるだろう。ただ、降り続く雨を眺めながら、暗く鬱陶しく思える雨が降り続く世界で、賢く優しい人々が、争いがなく平和で楽しく暮らしている姿を想像してみても悪くはないだろう。

「雨が止んだら、平和とお別れなのね・・」


(H18/7/23記)


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