人は言葉をどうやって理解するのか、どうやって文法に合致した言葉を作り出すのか。 ウィトゲンシュタインは、そこには解くべき問題などはない、何ら隠されたものはなく、すべてがありのままなのだと指摘する。人は、共同体の中で言葉を使い共同作業をする、ただそれだけだ。それ以上語るべきことはない。 チョムスキーはこれに反対する。人が言葉を理解して適切に言葉を使用することができるのは、脳の中に日常会話で使われる言葉の基礎となる深層文法とそれを運用するメカニズムが内蔵されているからだとチョムスキーは主張する。 哲学的に考察する限りウィトゲンシュタインが正しい。言葉を理解し適当な言葉を話したり書いたりすることができる根拠などどこにもない。ただそのような事実があるだけだ。私たちはただそれを記述することができるだけで、それを分析してより基礎的な原理やシステムを発見することはできない。しかも脳に深層文法とそれを運用するメカニズムが存在することなどありえない。なぜなら脳とは神経細胞とそれを支える細胞や血管などの集積物でしかなく、そんなものに深層文法やそれを運用するシステムがあるはずはないからだ。 しかし、ウィトゲンシュタイン流の悟りの境地に留まっている限り、言葉を聞いたり話したりしているとき脳に何が起きているのか、言葉を理解することが出来ない人や話すことができない人は何が欠けているのか、コンピュータに言葉を理解させるにはどうすればよいのか、こういう問題には全く手をつけることができない。そして忙しい現代人が関心を寄せ、社会的にも重要な課題は、哲学ではなく、こういう問題を解くことだ。チョムスキーの理論はこういう問題を解くための一つの方法的な枠組みを提供する。 チョムスキーは脳の中に深層文法が内蔵されていると信じた点で間違っているが、科学的研究への貢献は極めて大きい。一方ウィトゲンシュタインは哲学的には正しかったが、それ以外には何も残していない。 では、ウィトゲンシュタインが語ったことは無意味なのか。けっしてそんなことはない。人は悲しいときや嬉しいとき、自分の脳の中を覗き込んだりしない。そんなことは出来ないし、将来それが可能になったとしても脳細胞を見たところで何の感慨もない。人は自分の気持ちを言葉で表し、言葉に傷つき、言葉に悩む。言葉を失った人の苦しみや悲しみ、もどかしさを追体験することは困難だが、おそらく言葉が使えないという感情が苦しみを倍加しているだろう。ウィトゲンシュタインはこういう人間の在り方を自らの体験から深く認識して、そこから人々を救い出そうとした。ウィトゲンシュタインはもちろん成功していない。だが、その試みは私たちの心を惹き付けるものがある。人とはチョムスキーが考えるような単なる計算する機械ではない。 了
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