☆ アドルノ生誕100年 ☆


 今年はフランクフルト学派第一世代を代表する社会思想家・哲学者の一人であるテオドール・アドルノの生誕100周年である。
 アドルノの思想を要約することは難しい。そもそも一言で語るということを拒絶するところにアドルノの真骨頂があると言ってもよいくらいだ。だが、アドルノほど近代の理念を深く追求しながら、その矛盾を痛切に実感した人はいないだろう。

 近代の理念は、フランス革命の「自由・平等・友愛」というスローガンや、啓蒙思想に表現されてきた。人間は、良識ある知的存在であり、自然と社会を正しい方法で正しく認識して、正しい社会を作ることができる。知的能力はすべての人間に備わっており、自由にその知的能力を発揮する場を与えることができれば、すべての人は正しく見て、行動して、よい社会を作り出す。社会が混乱し悪が横行するのは、この自由が阻害されているからだ。
 このような思想が近代の理念であり、この理念の下に自由と人権が最高の価値を持つとされるようになった。

 だが、この麗しき世界観に疑いを持つ人々もいた。マルクスしかり、ニーチェしかりである。マルクスは、啓蒙主義者の自由や権利は支配階級であるブルジョアジーの自由と権利でしかないと考えた。ニーチェは、大多数の人間は自由を活かす能力など持ち合わせておらず、権力者を憎みながらも自らが権力者になるか自分が選んだ権力者の奴隷になることを望むと論じた。
 だが、マルクスも、ニーチェも、最終的には、人類はより高いところへと進んでいくと予言し、それを信じることができた。

 ナチの時代を生きたアドルノは、もはやそのような楽観的な見通しを持つことができない。アドルノをポストモダニズムの先駆者、反西洋・反近代主義者とみなすのが流行りのようだが、それは的を射ていない。アドルノは近代の理念それ自体を否定したのではない。むしろ、それが現実化することを心から切望していた。そして、裏切られた。理念の裏には悪魔が潜むとアドルノは信じるようになる。

 アドルノは、20世紀の知識人の苦悩を体現する。人間はすばらしいものであって欲しい、だが、とてもそのようにみることはできない。これがアドルノの叫びだ。ホルクハイマーとの共著「啓蒙の弁証法」の緻密な論理の背後にはアドルノの悲痛な叫び声が響いている。19世紀にはドストエフスキーが同じ叫び声を上げていた。「善なる神が存在すると信じたい。だが、それを信じることができない。」イワン・カラマーゾフが弟アリョーシャに語りかける言葉にはアドルノのそれと同じ痛みがある。

 理性は野蛮を孕むとか、理想の裏には嫉妬深い卑屈な精神が潜むこともあるなどと論じることは容易い。人間はさほど立派なものではないし、賢くもない。そのようなことは人間を少し観察すれば分かることだ。何も他人の行動を観察しなくてもよい。自分を省みれば容易に理解できる。人間が愚かである以上、近代の理念にはどこかしら無理がある。無理があるから理念なのだ。だが、それゆえ、近代の理念を社会全般に普及させようとするとき、現実の壁に否応なく衝突する。その壁を超えようとすると、理念とは全く正反対な野蛮へと転化せざるをえなくなる。強制や洗脳、反対者や違反者の抑圧がどうしても必要になるからだ。

 アドルノは最初からそれを分かっていたはずだ。それでも、彼は理性を求め理念を定立しようとした。予想通り、現実は彼を打ち負かした。アドルノは失望して人間の持つ理性と踵を接する野蛮を指摘することになる。

 だが、アドルノは世渡り上手な転向者などではない。アドルノは人間を批判するが、それでも人間に希望を繋ごうとして足掻く。晩年の著書「否定弁証法」にはその苦闘する姿が透けて見える。そこで求められている「非同一なるもの」は人間そのものである。完成することのない人間、愚かな人間、だが、アドルノが見つめているのは常に「人間」だ。

 ニーチェは「愛することができないのなら、そこを通り過ぎなくてはならない。」と語った。(「ツァラトストラ」)愛してもいない相手を批判することは不毛であり、厭らしい優越感の発露か憂さ晴らしにすぎない。愛する者を批判してこそ意味がある。

 アドルノはニーチェの教えを実践する。アドルノの哲学思想それ自体は、いまではポストモダニズムに消化吸収され過去のものになったと言われても仕方ないと思う。だが、アドルノはアドルノの生き様そのものにおいて永遠である。

(H15/5/24記)


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