☆ ほどよい大きさ ☆


 どんなものにもほどよい大きさがある。

 20世紀を代表する天才物理学者のディラックの著作「一般相対性理論」をご存知の方は、物理学特に理論物理学専攻の人以外にはほとんどいまい。物理学科の学生でも、ディラックの「量子力学」は知っているが、「一般相対性理論」は知らなかったという者が多い。

 「量子力学」同様、「一般相対性理論」も本格的な専門書であり、いわゆる一般読者向けの啓蒙書ではない。その記述は高度で、これをすらすら読みこなせるのは、相対論や場の量子論を専門とする理論物理学専攻の大学院生と専門家に限られるだろう。筆者はこの本が東京図書から発行(1977年)されてから暫くして購読したが途中で挫折した記憶がある。私程度の頭では理解できなくて当然のことなのだが、おそらく東大や京大に楽に合格できるくらいの頭の持ち主を集めても、この本を完全に理解できる者は日本全国で千人程度しかいないだろう。

 この極めて難解で本格的な物理学専門書が、何と筑摩書房から「ちくま学芸文庫」シリーズの一巻として文庫本として発売されたから驚いた。(2005年12月発行)

 価格は900円、この手の専門書としては信じられないくらいお得なお値段だ。理論物理学の専門家になりたい人には是非読んでいただきたいと言いたいところなのだが、いざ購入してみると、そうは言えないことに気が付いた。

 人文社会系の専門書ならば、文庫本でも違和感はない。ケインズの一般理論の文庫本は存在しない(と思う)が、文庫本になっても少しもおかしくない。哲学書などは普通サイズの単行本よりも文庫本の方が却って読みやすいくらいだ。自然科学でも、理論物理学や数学以外の分野ならば文庫本でもさほど問題はない。

 だが物理学の高度な専門書となると、やはり文庫版ではかなり辛い。小さすぎるのだ。

 物理学の専門書、特に本書のように高度に数学的で短いページ数に簡潔かつ濃密に理論が展開されている著作は、丁寧に数式を追って、きちんと理解して先に進んでいく必要があるが、そのためには数式の変形や推論の書き込みができる十分な余白が不可欠だ。今回の文庫版でも、そのあたりには配慮したらしく文庫版としては余白がかなり多めで、書き込みも相当できるようになっている。とは言え、やはり不十分だ。自分で書いた書き込みがあとで読めない。

 この類の著作は電車で揺られながら立って読むような代物ではない。そんなことをしたら、おそらく専門家でも乗り物酔いで気持ちが悪くなると思われる。つまり持ち運びが便利な文庫版にする必要性は少ない。

 しかも、どう考えても、この本が多数売れるとは思えない。尤も、今年はアインシュタイン奇跡の年1905年から100周年記念ということで出版界はアインシュタイン関連の解説本で大いに盛り上がったから、この本も素人向けの解説書や啓蒙書だと勘違いして購入する読者がいるかもしれないが、それでは詐欺に近いというものだ。前述のとおり、この本は理論物理学専攻の大学院生クラスの学力がないと読みこなせないから一般読者が購入すれば絶対に後悔すると断言できる。私など、性懲りもなく、押入れの中に単行本があるというのに、値段の安さに釣られて、またもや購入して早速後悔している。

 やはり、こういう本は普通の単行本サイズが似合う。そして、ちくま学芸文庫シリーズの書棚ではなく、専門書が並ぶ物理学コーナーに置くべきだ。ディラック「一般相対性理論」そのものは、多くの類書や研究論文で参考文献として引用されており、間違いなく名著の部類の属すると思われるから、それを出版することはたくさん売れなくても大いに意義がある。しかも900円というお手頃価格で出版に踏み切った筑摩書房の度胸には敬服するしかない。だが文庫本は無理がある。お願いだから、同じ価格で普通の単行本サイズで出版願いたい。900円ならばもう一冊買ってもよい。ディラックのファンとして。


(H17/12/22記)


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