11月24日付のネイチャー誌に、ホヤの一種ウスイタボヤに、人間の主要組織適合性遺伝子複合体(MHC)と同じような組織適合性遺伝子群が存在することを確認したという論文が掲載されている。 MHCは自分の細胞と他者の細胞を区別する働きを担っており、これにより人の身体は免疫系の働きで外部から侵入する様々な病原体から守られている。−その代わり臓器移植では拒絶反応に悩まされる。−ホヤにもそういう遺伝子のグループがあるわけだ。 人は誰でも、「私は私であり、他人とは違う。私は他人になることはできないし、他人も私になることはできない」と信じている。この確信が、実存哲学の源泉であり、心理学者エリクソンをして、セルフ・アイデンティティ(自己同一性)の概念を提唱せしめた。では、ホヤのような下等?な生物にも、「私は私以外の何者でもない。私は他のホヤにはなれないし、他のホヤも私にはなれない」という信念を持っているだろうか。 「ばかばかしい、ホヤにはごく幼稚な神経系はあるかもしれないが、人間のような高等な脳はなく、私は私だなどと考えているはずがない」と誰もが思うだろう。だが、そうとは言い切れない。そもそも、「私は私だ」という意識がどこから生じているのか誰も分からない。生物進化のどの段階で自己意識が生じたのか、誰も知らない。人間は、私は私だという意識を生み出しているのは脳だと勝手に信じ込んでいるが、実は科学的な根拠はない。 近頃はチェスや将棋の世界では第一人者でもコンピュータに勝てなくなりつつある。コンピュータやロボットが知性で人間を圧倒する日が来るのはそう遠いことではない。しかし、コンピュータがどんなに発達しても、私は私だという意識を持つことはない。もちろん「私は私で、他人とは違う」と音声合成装置を使って言わせるようにプログラムすることは至って簡単だが、それは単に機械的な動作に過ぎず自己意識の存在を示すものではない。映画「2001年宇宙の旅」で、乗組員を次々と殺害したスーパーコンピュータHALが、生き残った船長にシステムを制御するメモリを破壊される場面が登場する。そこで、HALは、まるで自己意識を持ち、死を怖れているかのように「お願いです、止めてください、恐ろしい」と切々たる声で船長に訴える。しかし、その声が如何にも死を怖れる人間と同じに聞こえるとしても、シリコンのような無機物質から製造されたコンピュータには自己意識はない。すべては機械的な動作に過ぎないのだ。だとすれば、高等な知的能力を司る脳を持っていることは、「私は私だ」という意識を有する根拠にはならないことになる。 自分と他人を識別する生物学的な根拠はMHCを核とする免疫系だけに存在する。そして、脳の活動を支える神経伝達物質系、身体の調整をする内分泌系、免疫系が相互に密接に関連していて、しかも共通点が多いことを考えると、免疫系の自己識別能力こそが、私は私という意識の源泉で、高次な脳機能はただ実存とかセルフ・アイデンティティなどというややこしい概念を作り出しているだけなのかもしれない。 もしかすると、ホヤは食べられるとき「ああ、私は食べられて死んでしまう。まだ死にたくない。」と泣いているのかもしれない。これからはホヤを食するときには、皆お祈りを捧げるべきだろう。尤も、私はホヤが苦手なので、その必要はないのだが。 了
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