物理学は、実験道具を使って実際に真空を作り出したり、思考実験やコンピュータシミュレーションで真空状態を作り出したりして、物質の運動や状態変化を調べて正しい理論を見つけ出すことができる。 しかし、人間と社会の研究では、実験はもちろんのこと、思考実験でも真空を作り出すことはできないし、無理矢理作り出したとしても、そこから役立つ帰結を導くことはできない。真空には人間も社会も存在しないからだ。 哲学は自然を論じることもあるが、人間と社会こそが哲学の本当の研究対象であり、哲学者が語る自然とは人間を通じて見られた「自然という概念」を意味しているに過ぎない。つまり、哲学者の課題は常に人間と社会で、真空を作り出そうと試みても無駄なのだ。 ところが、哲学者はそのことを理解していないか、理解していても真剣に考えようとしない。そして、思考の中で不毛な真空を作り不毛な議論を展開する。プラトンのイデア、アリストテレスのエイドス、デカルトやフッサールのエポケー(判断停止)など、哲学は常に思考の中で真空を作り出し、そこで根源的と称する思弁を弄することの繰り返しだった。だから偉大な哲学者の著作を読んでも、そこから霊感を読み取ることはできても、正しい考えを見つけることはできない。ときたま正しいと思えることが書かれてあったとしても、それは偶然に過ぎず、本論からは遠く離れている。たとえばヘーゲルはその代表格で、20世紀では、世紀を代表すると言われる二人の哲学者、ハイデガーとウィトゲンシュタインがその典型と言える。 しかし、人は、哲学者を非難することはできない。人は脳が肥大化して、計算能力も洞察力も大したことはないのに、いつのまにやら、やたらと自尊心だけは高くなった。絶対に不可能なのに、分不相応に世界全体を完全に理解しようと試みて、間違いを犯してばかりいる。それどころか、その愚かさから殺し合いまですることがあるから始末に負えない。ハイデガーはナチだったし、ハイデガーを信奉する者はナチに接近するほどハイデガーの思想は深かったのだ、などと訳の分からないことを言って反省しない。 要するに、人間の愚かさを代表しているのが哲学者で、哲学書がその表現なのだ。人は哲学書を読んで感激したり、逆にわけが分からないと不満を漏らしたりしているが、それは私たちが愚かで哲学者もその仲間であることを示しているに過ぎない。だから哲学書の正しい読み方とは、偉大な思想家と言われる人でも、その考えのほとんどは間違っていることを著作から読み取り、人の傲慢さを反省するというものだろう。 了
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