☆ 似ている・似ていない? 〜見方は人それぞれ〜 ☆


 プロゴルファーの宮里藍さんとダイエーからホワイトソックスに移籍した井口選手はよく似ている。柔道の谷亮子選手と故ミヤコ蝶々さんはよく似ている。と私は思うのだが、大抵は反対される。「どこがぁー」と言われてしまうのだ。「それは失礼だ」と叱られることもある。ところで誰に失礼なのだ?

 似ている・似ていないという判定は人それぞれだ。多くの人が似ていると意見が一致する例も少なくはないが、人によって異なる方が多い。私は、反対されてもされても、宮里と井口、谷とミヤコは似ているように感じる。だが他の人は違うらしい。

 似ている・似ていないの判定基準は曖昧だ。いや、そのような規準はないと言ってもよいかもしれない。宮里と井口が似ているという根拠を示せと言われてもできない。

 だが、似ている・似ていないの判定はどうでもよいことではない。私たちの思考と認識、それに基づく様々な活動は、違うものを似ていると判断することで進行する。素粒子の世界にまで行き着けばともなく、厳密に言えばこの世には二つと同じものはない。だから、似ているものの違いを捨象して同一化することで初めて、体系的な学問的認識が成立して、それが現実生活や生産活動に役立つ。だから、似ている・似ていないの判定は大変重要だ。

 しかし、似ている・似ていないの判定は人それぞれだから、宮里と井口に同一性を見る私と、そんなものを全く見ない他人とでは、思考と認識が異なっていることになる。

 厳密な知識の獲得を目指す学問的な研究では、似ている・似ていないの判定規準は厳格で普遍的なものだと思われるかもしれないが、数学や物理学のような厳密な学問ですら曖昧な基準しかない。況や、哲学では規準などないに等しいし、現実の政治経済活動や芸術の世界などでは規準は実質的に存在しないと言ってよいだろう。

 それにも拘わらず、似ているという判定が私たちの思想と行動に大きな影響を与えているのだから、人の意見や行動が一致しないのは当然だ。他人と意見が合わなかったり、行動が各人ばらばらになったりしても、それは当たり前のことと考えなくてはいけない。そういうときは、人を責めるのではなく、また自分を卑下するのでもなく、寛容の精神を以って他人と対話し共存していく、それが一番大切なことと言えよう。


(H17/3/11記)


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