☆ ウィトゲンシュタインとフロイト ☆


(注)「ドグマ」という言葉は色々な使われ方をするが、本論では、「根拠の不明確な固定観念」のような意味合いで使用する。

 ウィトゲンシュタインとフロイトの思想には類似点が多いと言われる。二人とも、人々が知らぬうちに陥っているドグマを明らかにし、別の道を示すことで人々を混迷から救い出そうとする。二人とも、人々に「気付かせる」ことを目標にしていると言ってよい。だが、ウィトゲンシュタインとフロイトの方法は大きく異なる。

 英国のドラマ「ウィトゲンシュタイン」で、教壇に立つウィトゲンシュタインが学生と問答する場面がある。

学生:「先生の言うことが分かりません。私にとって「私には私の痛みが分かる」と言うのは自然です。」
ウィトゲンシュタイン:「なるほど、自然か。では、こう言う方が自然だと思わないか。(地球が自転しているのではなく)太陽が地球の周りを周っていると言う方が。」
学生:「そう見えますからね。」
ウィトゲンシュタイン:「では、地球が自転しているとしたら、どう見える。」
学生:しばし考え込む。そして、突然何かに気が付いたように明るく微笑み、答える。「そうか!先生の言うことが今分かりました。」

 「太陽が地球の周りを周っているように見えるが、事実はそうではなく、地球が太陽の周りを自転していると言うのが真実だ。」こういう風に私たちは小さい頃から教わってきた。そして、コペルニクスの地動説は偉大な発見だと教えられた。だから、私たちはどうしても、こう考えたくなる。「太陽が地球の周囲を周っているように見える。それが自然な見方だ。しかし、事実は、地球が太陽の周囲で自転しているのだ。それは自然な見方ではないが、科学的真実なのだ。」と。

 しかし、ウィトゲンシュタインは、これが思い違いであることを指摘する。地球が自転していても、太陽が地球の周りを周っていても見え方は全く同じ。つまり、「太陽が地球の周囲を周っていると言う方が自然だ」という主張に根拠はない。ただ、私たちは共同体の中で、そう考える習性が身についただけなのだ。

 こうやって、ウィトゲンシュタインは人々が陥っているドグマを暴き出し、言語使用の混乱から人々を解き放とうとする。

 フロイトも、悩める患者達のドクマを明るみに出すことで、そこから脱出する手掛かりを与えようとする。だが、フロイトはウィトゲンシュタインのように事態を明確にするのではない。無意識という新しいドクマを提唱して、人々の意識を古いドクマから新しいドグマへと移しかえることで、患者を苦しみから解放しようとする。

 「無意識」なる物は存在しない。私たちは熱いヤカンに手を触れてしまったとき、「無意識に」手を引っ込める。「無意識」とは、「無意識に何かをする」という形容詞的な存在であり、名詞的な実体的存在ではない。「柔らかい物」は存在するが、「柔らかさ」という物は存在しない。同様に「無意識に遂行される身体的活動」は存在するが、無意識なる実体は存在しない。「無意識」という名詞に惑わされて、私たちはしばしば「無意識」を実体的に捉えてしまうが、無意識とは常に「無意識に何かをする」ことを意味しているに過ぎない。

 フロイトは、この実在しない「無意識」を実体化し、独特の世界を構成して患者をそこに導く。そこで、患者は自分に気付くという体験をし、首尾よく事が進めば、苦悩から解放される。つまり、患者は無意識という新しいドグマを了解することで、古いドグマに気が付き、そこから解放される道があることを悟る。たとえば、自分の手が汚れているという強迫観念に囚われている者に「母親への満たされることのない性愛」という一つの仮想空間を提示することで、その者は自分の行為を全く異なる視点から眺めることで強迫観念を相対化することができる。

 ウィトゲンシュタインがドグマそのものを解消しようとしたのに対して、フロイトはドグマを別のドグマに置き換えようとする。ここに両者の決定的な違いが存在する。

 ウィトゲンシュタインの方法がフロイトより優れているとは言えない。ドグマを解消することなどできないからだ。人は言葉の中で考え、言葉を使って他人と情報交換して生活している。それゆえ、人は言葉の日常的な使用方法というドグマから解放されることはない。いや、ドグマがあるからこそ、迷うことなく迅速に判断して適切に行動することができる。だから、治療効果はドグマを与えるフロイトの方が大きい。

 とは言え、ドグマが政治的・思想的な抑圧や差別に繋がることもあるから、ドグマから人を解放しようとするウィトゲンシュタイン的試みには極めて大きいな意義がある。私たちには、ウィトゲンシュタインもフロイトも必要なのだ。



(H17/2/2記)


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